愛がなければ世界は無だ、ということについて

エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

倫理学における思考実験と、その濫用の可能性について

サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』を読み返している。

この本には数々の思考実験が登場するが、その中にテロリストを拷問すべきかどうかという思考実験が登場する。

(前略)あなたはアメリカ中央情報局(CIA)のある地区支局のトップだ。一人のテロ容疑者を逮捕し、その男がその日のうちに爆発するようマンハッタンに仕掛けられた核爆弾の情報を持っていると確信している。実のところ、あなたにはその男が自分で爆弾を仕掛けたのではないかと疑う理由がある。時間は刻々とすぎていくが、男はテロリストであることを認めないし、爆弾の所在を明かそうともしない。男に拷問を加え、爆弾を仕掛けた場所とその取り外し方を吐かせるのは正しいことだろうか。

(Kindle版 ロケーション819/6144)

気になったのは、その変種として(割とサラリと)紹介される思考実験だ。

(前略)テロ容疑者の口を割らせる唯一の方法がその男の(父親の非道な活動を何も知らない)幼い娘を拷問することだとしよう。それは道徳的に許されるだろうか? かたくなな功利主義者であってもそうは思いたくないだろう。しかし、改訂されたこの拷問のシナリオは、功利主義の原理をより適正に検証するものとなる。テロリストは(無理にでも聞き出したい重要な情報の有無にかかわらず)とにかく罰せられて当然だという直観を脇へ追いやり、われわれを功利主義の計算そのものの評価へと向かわせるからだ。

(Kindle版 ロケーション861/6144)

思考実験というものは、ある状況を仮定して様々な考察を行う。上記の例でいえば「テロリスト自身を拷問しても意味はない」「娘を拷問すればテロリストは必ず自白する」、そして「我々はなぜかそのことを知っている」という仮定が存在する。それらを自明のものとして、罪のない少女に対する拷問という行為の正当性を考察しようというのがこの思考実験の趣旨なのだが、しかし、それは不可能ではないだろうか?

倫理学と思考実験

思考実験による考察は、「仮定を導入する」「その仮定を自明のものとして考える」という行為が可能であることを前提にしている。しかし、それらの仮定――「テロリスト自身を拷問しても意味はない」「娘を拷問すればテロリストは必ず自白する」――を我々の理性が納得して受けいれたとしても、我々の感情がそれを受けいれるという根拠がどこにあるのだろうか?

例えばある論者の理性が仮定を受けいれなかったとするなら、それは論旨に表れるはずで、それを評価する我々が十分に注意深ければその瑕疵を見抜くことができるはずだ。我々はその論を「仮定を誤解している」という理由で退けることができる。しかし、ある論者の感情がそれを受けいれていなかった場合に、我々はそれを判別できるだろうか? または、論者の感情が仮定を完全に受けいれていたとしても、その論を評価する我々のほうはどうだろうか?

これが例えば数学の問題であれば話は変わってくる。数学の問題は論理のみに従って正否を判別できるからだ。ある論者が思考実験の仮定を感情的に納得できていなかったとしても、その論が論理的に正しければ論は正しい。論者の感情がその仮定に納得しているかどうかは論理的にはどうでもよい問題である。

しかしそれが哲学の、しかも倫理学の問題であればどうでもよいということにはならない。「道徳感情」という言葉があるように、道徳というものは感情に沿うものであるかどうかによってその正誤を左右されるものだからだ。

もちろん、感情によって道徳を決めてしまってよいのかという議論は存在する。感情というものは人によってによって変わりうるものであり絶対的な基準として運用できるようなものでは到底ありえない。だからこそ道徳に関する様々な議論とそれによる多様な道徳理論が生まれたのである。しかし、そのどれも我々の感情を無視して成り立つものではなく、だからこそ思考実験は感情を”ムダに”揺さぶるものであってはならない。

テロリストの娘を拷問するかどうかを考えるとき、我々はどうやって「テロリスト自身を拷問しても決して口を割らないが、娘を拷問すれば口を割るはずだ」という確信を得るのだろうか? 娘を拷問してもテロリストが口を割らないとしたら、我々に残るのは罪のない少女を無為に傷つけた罪悪感だけだ。良心の呵責や罪悪感といったものは自然に湧いてくるものであり、「その可能性はないという仮定なのだから考えるな」という言葉にはなんの意味もない。

もちろん、だからといって倫理学においてあらゆる思考実験を行うべきでないということにはならない。例に挙げた「テロリストの娘の拷問」という思考実験には仮定が多く、その中にはかなり不自然なものもある。我々の感情はそれをおそらく納得しきれないだろう。しかしその前にある「テロリストの拷問」という思考実験については前提となるような条件も少なく、そう不自然なものでもない。おそらくだが、我々の感情も完全ではないにせよ納得してくれるのではないか。

どんな仮定であれば我々の感情に適うのか厳密に定義するのは難しいが、なるべく自然な仮定を考えることと、どんな仮定であっても僅かなズレは避けられないことを念頭においておく必要がある。

ロッコ問題

ロッコ問題についても触れておく。この有名な思考実験にも、上記の観点からは瑕疵があるように見える。『これからの「正義」の話をしよう』でトロッコ問題は以下のように紹介されている。

あなたは路面電車の運転士で、時速六〇マイル(約九六キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。どうすべきだろうか?ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ!何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。

(Kindle版 ロケーション491/6144)

標準的なトロッコ問題にも多少の瑕疵はあるように思う。我々は(少数の例外を除いては)路面電車の運転手ではないし、車両を急遽待避線に入れる具体的な方法やその危険性、確実性について熟知しているわけではない。

しかし、さらに深刻な瑕疵を抱えているのはその変種のほうだ。

さて、もう一つ別の物語を考えてみよう。今度は、あなたは運転士ではなく傍観者で、線路を見降ろす橋の上に立っている(今回は待避線はない)。線路上を路面電車が走ってくる。前方には作業員が五人いる。ここでも、ブレーキはきかない。路面電車はまさに五人をはねる寸前だ。大惨事を防ぐ手立ては見つからない──そのとき、隣にとても太った男がいるのに気がつく。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻むことができる。その男は死ぬだろう。だが、五人の作業員は助かる(あなたは自分で跳び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている)。 その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか?

(Kindle版 ロケーション499/6144)

人一人を突き飛ばして線路の上に正確に落とすのは簡単なことではない。相手が太っていればなおさらだ。そして路面電車が線路の上の太った男一人で止まる保証が本当にあるだろうか? その車両が5人の人間を確実に轢き殺すエネルギーを持っていたことを考えれば、その可能性はかなり疑わしい。

このトロッコ問題は瑕疵が多すぎて、もはや物理的、工学的な見識を問う謎の問題になり果てている。曰く「高体重男性の運搬と落下によるブレーキシステムの有効性と代替案について」というような。

標準的なトロッコ問題で「待避線に入る」と答えた人の数に比べて”太った男”バージョンのトロッコ問題で「男を突き落とす」と答えた人の数は少ない。著者ははそのことを理由に2つの問題の間には”なにか本質的な違い”があることを示唆しているが、これは単に”太った男”バージョンの思考実験としての質が悪すぎるためではないだろうか? もちろんそこに”本質的な違い”が紛れ込んでいる可能性は否定できないが、それを切り分けることは不可能だ。そういった議論をしたいのだとしてももっと別の適切な例を探すべきであり、穴だらけの思考実験を例にした議論に価値があるとは思えない。

結論

『これからの「正義」の話をしよう』の中で思考実験が多用されているのは倫理学の初学者にも解りやすいようにという配慮からなのだろうが、上記の観点からいえば危険な例が目立つように思う。瑕疵だらけの思考実験を題材にした考察や議論にはほとんど意味がない。倫理学は、感情が議論の行方を左右するやや特殊な学問である。倫理学者たちは、その特殊性をもう少し考慮に入れておいたほうがよいのではないだろうか?