愛がなければ世界は無だ、ということについて

エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

同性婚と近親婚の関係について

増田で面白そうな議論を見つけたので、たまには時事ネタにのっかってみる。

anond.hatelabo.jp

同性婚と近親婚は性質が異なり、前者を認める人が後者も認めざるを得ないとは必ずしもならないだろう。しかし論者の立場によっては両方を認めないと整合性がとれなくなる、ということはあるかもしれない。面白い問題提起だと思う。

先に言っておくと、近親婚については「インセストタブー」という名前で多数の研究があるはずなので、本格的に知りたいという人はそのワードで本や論文を探してみるのがよいだろう。

なぜ近親婚は禁止されるのか?

まず、近親婚を禁止しているのは(おそらく)以下の理由からである。

  1. 近親交配による先天異常の回避
  2. 遺伝的多様性の確保
  3. 虐待の抑止

同性婚を認めるなら近親婚も認めざるを得ないという主張はおそらく「同性婚を認めるということは結婚という制度から生殖という役割を除外するということである」という観点を持っており、それによって上記の1、2が成り立たなくなるということを主張しているのだろう(あるいは、同性婚を認める理屈と同じ理屈で近親婚が正当化できる、という主張かもしれない。これについては後述する)。だとすると3の理由(虐待の抑止)だけで近親婚を禁止する十分な根拠になりうるのか、というのが論点になる。

しかしその前に、まずは上記の観点「同性婚を認めるということは結婚という制度から生殖という役割を除外するということである」が正しいのかどうかを確かめるべきだろう。上記の観点をもとに議論を進めても、もとにした観点が間違っていては議論が無駄になってしまう。

同性婚の容認=結婚から生殖という役割がなくなる?

まず、結婚という制度の社会的な役割とは何なのか、考える必要がある。

愛し合うふたりを夫婦という形で国家が承認するのが現代における結婚という制度だが、これはそのふたりが家庭をつくるという期待のもとに存在する制度だと考えてよいだろう。

家庭とは、生殖と子育ての場であると共に社会を構成する基本単位である。愛し合う者たちが助け合って共に生きるということである。行政がその構築を奨励するのは共生や友愛を社会として奨励するというメッセージであり、またそれによって行政コストや社会コストを低減するという現実的な意味もあるだろう。

また、1対1のパートナーを決めてしまうという制度には、性欲をコントロールして秩序を守るという側面もあるだろう。我々は結婚制度が存在しない社会についてほとんど知見を持っておらず想像するしかないが、おそらく古代、人が集まって集団を作るようになったことによって人間関係が複雑になり過ぎてしまったのだろう。二股、三股、それ以上の関係をそれぞれが結び倒した結果しっちゃかめっちゃかなことになってしまい、それで結婚制度が必要になったのだろうと推測できる。

そして、「社会の構成単位としての家庭」「性欲のコントロールとしての結婚制度」どちらの意味でも生殖は必須ではない。

生殖の場という側面は家庭の重要な機能ではあるが、子供を作れない/作らない人たちの結婚を禁止する規定や議論がないことから考えても、それが必須だと考える根拠は薄い。

社会の人口の維持という面からしても、同性婚を禁止することがその目的にどの程度寄与するのかは疑問がある。社会の不公平感を増してまで続けるべきだとまでは思えない。

「性欲のコントロール」については言わずもがなである。同性愛者にも性欲はある。

結論として、結婚制度には子を産み育てる場をつくるというだけではない意義があり、その意義を果たすために同性婚を認めるのは不自然なことではない(”育てる”に関しては同姓カップルでも可能だし)。

というわけで「同性婚を認めても結婚から生殖という役割は排除されない」ということになる。よって近親婚を認めるか否かは上記の1~3の議論によることになる。これらは興味深い論点だが、近親婚についての既存の議論と変わるところはない。言い換えれば、同性婚を認めることによって近親婚を巡る議論に影響はない。

同性婚を認める議論が近親婚に与える影響は?

次に、上述した「同性婚を認めるのと同じ理屈で近親婚も認めざるを得ない」という可能性についても見てみよう。

まず、同性婚を認めるときの理屈が近親婚の正当化に援用できるかということについては、ある程度そうだと言える。上記の議論のいずれも近親婚に援用することはできる(性欲のコントロールという側面には異論もあるだろうが)。ただし、それによって近親婚の問題点(上記の1〜3)がクリアされるわけではない。

強いて言えば、「生殖の場という役割が必須ではない」という議論によって1と2(先天異常と遺伝的多様性)の論拠は多少弱まるかもしれないが、これも決定的なものではない。

また、リベラリズム(この言葉の定義はよく理解できていないが・・・)によれば1と2の理由を認めるべきではない、というような意見も散見された。ただ、これはリベラリズムが近親婚をどう考えるか、という問題であって同性婚は関係ない。

よって、同性婚を認める理屈は近親婚の議論にはほぼ影響しない。少なくとも、それによって近親婚を認めざるを得なくなる、というほどには影響しない。

結婚と生殖についての補足

結婚と生殖や性行為の間に関係を見いだすこと自体を否定する考えもあるかもしれない。法律のどこにもそんな事は書いていない、というような意見だ(本当に書いていないのかは知らないが)。

だが、結婚とはもともと文化として成立していた行為であり、成文化された法律はその一部を切り取ったものに過ぎない。今もなお結婚という制度には文化的な側面が強く存在し、それを無視して結婚制度を語ることはできない。

いち文化に過ぎないものを国の制度として組み込み続ける必要があるのかという議論はありうるが、それはそれ、これはこれだ。

まとめ

以上の議論によって「同性婚を認めたら近親婚も認めざるを得なくなる」という主張は否定される、というのがここでの結論だ。

近親婚の議論をもう少し突っ込んでする必要があるかと思って書き始めたが、あまり第一感の通りにはいかなかった。・・・別にいいのだけど。

もちろん、この議論は同性婚や近親婚の是非そのものについて論じたものでは(あんまり)ない。しかし、それも含めて異論・反論があればコメントしていってほしい。