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「進化倫理学入門」読書メモ② 道徳の定義、進化論的反実在論

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進化倫理学入門の読書メモの2回目。テーマは道徳の定義、それから進化論的反実在論についても検証する。1回目はこちら(https://estism.hatenablog.com/entry/2021/05/05/124944)へどうぞ。

まずは定義から

少しでもましな議論をするために定義は重要だ。道徳の定義についての記述は、第3章の始めの方にある。

道徳的であるとは道徳的に振舞うということだと思う人がいるかもしれない。これは魅力的な考え方であるが、ほぼ確実に間違いである。もし我々が、道徳的に振舞うことを単に、一般に容認された道徳規範に則るように振舞うこと(たとえば、必要もないのに他者に危害を与えない、周りの者を助ける)と定義すれば、よく考えると道徳的とは言えないような多くの生物を道徳的なものとみなすように我々は強いられるだろう。たとえば、あるネズミが彼の周りのネズミを殺さないからというだけで、その理由から、そのネズミは道徳的であると言うことは拡大解釈であろう。(後略)

(p.70)

道徳とは行動につく名前ではなく、行動の根底にある思考につけるものだということだろうか。さらに少し後にこうある。

哲学者のリチャード・ジョイス(2006)によると、いかなる道徳的能力にとっても不可欠な要素の一つは、禁止というものを理解すること、すなわち、間違っているから行うべきでないということを理解することだとされる。(後略)

(p.73)

道徳的思考とは「〜〜をやりたくない」というものではなく「〜〜をやってはならない」というルールを理解すること、ということらしい。また、少し後になるが道徳と感情の関係についても記述されている。

(前略)「あなたは自分を恥じるべきだ!」道徳的生物であることの一部には、すると、感情についての規範が含まれるようである。罪あるいは恥は自身の(自認した)悪事に応じた適切な感情である。(後略)

(p.80)

これは定義ではなく進化倫理学が必要とする道具立てだろう。道徳が適応の結果として進化してきたと主張する時、「道徳的思考が進化してきた」というと(思考が遺伝して進化する?)意味が分からないので、「道徳的思考を導く感情が進化してきた」と主張することが必要になる。良心の呵責と呼ばれているような感情が存在するという主張は同意できる。

エスティズムへの波及

文中でネズミやチスイコウモリ、お手伝いロボットなどを例にとって「こいつらは道徳的じゃない!」という感じの議論を展開しているのだが、この辺りは人間中心主義的な匂いを感じてしまって好きではない。道徳の定義自体にしても、人間以外の動物が道徳的である可能性を慎重に排除しているようにも感じる(それでも排除しきれていないように思うが)。

ここで念のために言って(書いて)おくと、エスティズムは人間だけを対象にする理論ではない。議論の対象が人間周辺の話題になりがちなのは提唱者である私が人間だからであって、理論的に人間を特別視する理由は何もない。

私は「エスティズムは倫理学だ」と言ってきたが、少なくとも上の定義を見る限り道徳だけに留まる理論ではない。より広い”広義の道徳”を扱う理論、または道徳を含むあらゆる価値を扱う理論だと言うべきだろう。広義の道徳を扱うと考えれば倫理学のようだが、あらゆる価値を扱うと考えれば違うような気もする。しかし他にどう名乗るべきかも分からないので、とりあえず倫理学だということにしておこう。

進化倫理学へのとばっちり

ここで少し気になることがある。上のエスティズムに関しての議論は進化倫理学にも当てはまるのではないだろうか? つまり、進化倫理学の対象は道徳に留まるのか、という議論だ。

道徳心という感情は進化によって獲得されたものだというが、進化によって生まれたものは感情だけではなく、もちろん意識の中のものだけでもない。我々の体は毛の一本に至るまで進化の産物である。その中で道徳だけが特別であり、尊重されなければならないというのは奇妙な理屈に思える。

これはおそらく、文中の「進化が倫理を破壊する」という言葉と通底している。

しかしウィルソンとルースは進化と倫理の間の新しい関係を構想した。スペンサーは、進化が倫理を支持すると考えた。ウィルソンとルースは、(少なくとも倫理が客観的規則に存するという意味においては)進化が倫理を破壊すると考えている。進化倫理学に対するアプローチの変化は次の引用によく反映されている。

進化論者はもはや事実的基盤から道徳を導く試みはしていない。彼あるいは彼女の主張は今や、道徳を導くことのできるいかなる種類の基盤も存在しないというものだ。……明らかに倫理は実在しないものではないため、進化論者たちは我々の道徳的感情を単純に人間心理という主観的な本性に見出している。このレベルにおいては、道徳は我々が見知らぬものに感じる恐怖――これは疑いなく、よい生物学的価値を持つもう一つの感情である――がもつ地位以上のものでは(また以下のものでも)ない。(Ruse 1986:102)

(p.249)

スペンサーというのは社会ダーウィニズム社会進化論)の提唱者らしい。対してE・O・ウィルソンとマイケル・ルースという後発の研究者がその理論を否定したという形のようだ。

しかし、上の「~~が持つ地位以上のものではない」と言う時の”地位”とは何のことだろうか? 同じものだから同じ地位が与えられる、という理屈なのだろうが、道徳的感情と他の感情は厳密には同じものではない。違う地位を持たせるほどの違いは見いだせない、という意味だと主張するにしても、では、その違いとは何なのかということを示さなければならないだろう。

そこで必要になるのがエスティズム([https://estism.hatenablog.com/entry/2021/04/28/200406])だ。

……というのは(半分)冗談だ。何が言いたいのかというと、進化論的反実在論*1たちが道徳の価値を本当に(厳密な意味で)否定したいのなら、何らかの価値基準を持ち出さなければならないのではないか。価値基準を持たない者に価値を否定することはできないはずであり、その意味で彼らの主張は不完全だ。

反実在論の選択肢

ここで、進化論的反実在論者たちには2つの選択肢がある。

1つは、何らかの価値観を構築すること。その価値観の中において道徳は特別な価値を持たないと示すことだ。その場合の価値観だが、順当なところでは「適応的か否か」というところだろうか。これはエスティズムにも通じる価値観であり、この方向で研究を進めてくれるのなら、仕事を押し付けて楽ができる エスティズムの理論にも大きな恩恵があるだろう。

もう1つの選択肢は茨の道だ。「道徳は、考え得るすべての価値観において特別な価値を持たない」ことを示す。これは成功するかどうかさえ定かではない。なぜなら、既に道徳に特別な価値を与えている価値観は存在する*2からだ。これを真面目に探求するとしたら、まずはそういった価値観の誤謬を指摘するところから始めなければならず、それが完了したとしても未知の価値観に対応するという仕事が残っている。途方もない仕事になるだろう。実際にはもう少し妥協して「哲学者の間で同意を取れるような価値観」の範囲に限定することになるだろうが、その場合でも、その妥協が許されるものだということを示さなければならない。

いずれにしても、進化倫理学は道徳を扱うだけでは足りない。少なくとも道徳以外の感情について、その価値を語る必要があるだろう。

現実的なところ

だが、実際にはこう主張する余地はあるだろう。「立証責任は向こうにあるはずだ」と。進化論的反実在論者たちは道徳の性質を進化論的に解き明かし、そこに特別な意味をもたらすような根拠が見当たらないことを示した。ならばボールは実在論者の側にあるはずだ。道徳に特別な価値があるというのなら、それを証明したい側が仮説を示すのが先だろう、と。

これは厳密な論証ではなく、ある意味で"逃げ"だ。立証責任が誰にあるのかという論法は、「オッカムの剃刀」などと同じく厳密な証明ではない。そんなものに頼らずに真剣勝負で殴り合って欲しいところだが、議論のリソースは常に有限だ。現実的な落としどころを深るためにはそういった論法も有効だろう。少しつまらないが。

まとめ

まとめると、こんなところだろうか。

  • エスティズムは倫理学ではないかもしれない。少なくとも道徳だけの価値を論じる理論ではない。
  • 進化論的反実在論に厳密な証明が必要になった時、進化倫理学は道徳を論じるだけでは足りなくなる。
  • ただし、今のところ厳密な証明が必要な状況ではなさそう。

長くなったので次回に続く。

*1:この用語は混乱しているような気がするのだが、ここでは上述の「進化によって倫理は破壊された」という立場を取る人たちと解釈する

*2:神「私が決めました」