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進化倫理学入門読書メモ③、進化論的実在論

進化倫理学入門読書メモの3回目は進化論的実在論について。

進化的実在論の可能性について

議論するに当たって進化論的実在論の用語の意味を確認したいのだが、前回少し触れたように混乱があるように思う。

再掲になるが、マイケル・ルースの言い分を見てみよう。

(前略)明らかに倫理は実在しないものではないため、進化論者は我々の道徳的感情を単純に人間心理という主観的な本性に見出している。このレベルにおいては、道徳は我々が見知らぬものに感じる恐怖――これは疑いなく、よい生物学的価値を持つもう一つの感情である――がもつ地位以上のものでは(また以下のものでも)ない。(Ruse 1986:102)

(p.249)

ルースは道徳の”地位”について触れている。これは”価値”についての話だとみなして良いと思う。しかし、この本の後続の部分で語られる実在論では、道徳の価値についてはあまり論じられていない。

進化論的反実在論を紹介する箇所を確認してみる。

あなた方は進化に騙されてきたのだ。もし進化論的反実在論者(と私が呼ぶ人々)がバンパーステッカーを必要とするならば、これがそれだろう。進化論的反実在論者によれば、客観的な道徳の基準は存在せず、客観的な道徳の基準が存在するという信念は進化のいたずらなのだ。(後略)

(p.234)

「客観的な道徳の基準」というところがポイントだろうか。これは「誰もが共有できるような道徳」という解釈と「事実として存在する根拠を持つ道徳」という2つの解釈ができるように思う。

まとめると、道徳の実在性は以下の要素で構成されているのだと考えられる。

  • 「共有性」
  • 「事実性」
  • 「価値」

「共有性」は、個々の考えている道徳が他の人のものと一致するかどうかを指す。全人類共通の倫理というような”強い”ものから、共同体の中では一致するというようなレベルまで段階がある。

「事実性」。道徳とは、我々の頭の中だけにある妄想のようなものではなく、実世界に根を下ろす何らかの実体が存在するということを示す。これは「ある」か「ない」かのどちらかで、強弱のようなものはない。

「価値」については言葉どおりだ。細かく言うと「道徳に、それを守らなければならない理由は本当にあるのか」という観点と「道徳心は、他の適応的な性質と比べて特別なものなのか」という観点があるだろう。これも価値の強弱を考えることができる。

(間違ってたらごめんなさい)。道徳的事実について少しググって見たところ、wikipedia の道徳的実在論の(現時点の)概要が以下になる。

道徳的実在論(どうとくてきじつざいろん、英: Moral realism)とは、倫理に関する言明は、世界の客観的な性質を指示する命題を表現しており、そうした性質をどれだけ正確に報告しているかによって命題の真理値は定まる、とする学説である。(後略)

(最終編集日: 2019/01/25 03:56)

道徳には現実に立脚する事実性があり、その根拠となる事実によって道徳的であるかそうでないかが決まる。これは上記の「事実性」について言っているのだろう。そして"客観的な性質"に依拠しているのだから、「共有」も確保されているはずだ、というところだろうか。「価値」についての言及がないが、現代の倫理学者はあまりそれについてこだわっていないということだろうか。

正確な定義を調べて理解してから、とやっているといつ書き終わるのかわからない。そんなに的を外しているわけでもなさそうなので、上記のオレオレ定義で話を進める。

まず自明なこととして、進化論的実在論において適応と関係のない道徳的事実はありえない。道徳的事実が適応とは無関係だと(別の言い方をすれば、”直交”していると)するのなら、適応の結果ではない道徳が存在することを認めなければならず、それでは前提に反する。

次に、道徳の適応性だけを持って道徳的事実とすることは「価値」の点で疑問が生じる。適応的であることは他の感情と道徳的感情を分けるものにはならないからだ。

進化論的実在論が成立するなら、道徳的事実とは道徳的感情をつくりだす何かであり、上記の議論を踏まえて考えれば、その何かとは「特殊な適応」であるということになる。

言い替えれば、適応的な感情の部分集合が道徳的な感情であり、その部分集合をつくりだす何者かが道徳的事実と呼ばれるものだ。

図示するとこうだ。

(ひどい図だ)適応によって感情というものがつくられているが、その内の一部を我々は道徳的感情と呼んでいる。上図の「倫理ビーム」――道徳的感情とそれ以外の感情を分けるもの――の正体が何なのか、ということが問題になる。最も単純に考えれば、それは「道徳の定義と一致するような感情を導くもの」ということになる。「禁止というルールを導くような適応の仕方」と言ったほうが良いだろうか。そして道徳に特別な価値があると言うためには、そういった適応の仕方に特有の「価値」があることを示さなければならない。

では、上記の議論を踏まえて本の中の道徳的実在論を見てみよう。①正・不正の学習、②反応依存性、③自然化された徳倫理学、④道徳的構成主義の4つの"選択肢"が紹介されている。

①正・不正の学習

進化論的実在論者にとっての一つの選択肢は、我々の道徳感覚が進化上の遺産であるということを否定することである。我々がそれを宇宙人や神から受け継いだという可能性を締め出せば、そうした否定は我々が正・不正を学んだということを含意するであろう。(中略)人類が道徳感覚を発展させるようになるのはどうしてなのかということに関する最良の説明は、おそらく何らかの方法で人間から独立して実在する道徳的性質について言及しなければならないということである。(後略)

(p.266)

まず、これは道徳が進化の産物だということを否定した上で成り立つ仮説なので、進化論的実在論とは言えないだろう(進化論的実在論の話をすると言いつつ、なぜ最初にこれを持ってくるのだろうか?)。

いくつかの問題があると思う。まず道徳を学習するという性質上、環境が違えば学習される道徳も変わることが予想できる。また、違う文化圏で共通の道徳があったとしても、それが”たまたま”である可能性を否定できない。「共有性」についてはあまり期待できないだろう。

特に問題なのは「根拠」についてだ。

(前略)進化論的反実在論者が自身の主張を完全だと考えるのは、我々が説明を欲するすべてのことが進化論的な物語によって説明されると主張するからである。だがもし進化論的な物語が見当違いである――あるいは、良くても不完全である――場合、その主張は誤っていることになる。そして今度は進化論的実在論者が、人間と道徳的性質との「相互作用」に依拠した道徳的発達の説明を与えることによって、その空席を埋めることができるのだ。

(p.266)

道徳の進化論的な説明が不十分なら、そこに非進化論的な説明を滑り込ませる余地がある、という主張だろう*1。しかしそれが学習によるものだというのがわからない。学習能力が適応的に進化した能力なのは明白なので、だとすれば学習の結果も適応の結果とみなせるのではないだろうか?

そうではなく、学習するための”刺激”の部分に道徳的事実があるのだという主張なのだろうか。我々の外部には道徳的事実のタネのようなものがあり、我々はそれを学習して道徳を習得しているのだ、と。たとえば毒性のガスを嗅覚によって避けられるとした場合、嗅覚には命を救うという価値があると考えられる。しかしその価値は嗅覚自体というよりも、ガスの毒性の強さや発生頻度などに依存する。この場合、嗅覚の”事実性”は毒ガスの側にあると考えることもできる。

しかしこれは”環境に対する適応”と本質的に同じことのように思える。適応の価値や根拠が環境の側にもあることは(「適応」という名前からしても)自明なのだから、同じ議論を違う名前で行っているだけのように見えてしまう。”適応”と”学習”の質的な違いについての議論がもう少しあっても良いのではないだろうか。

また、この主張は道徳を”学習し損ねた”人たちの存在を想定できてしまう。具体的には、差別主義者たちの「〜〜の民族には道徳という概念がない」といったような主張に根拠を与えてしまう危険性がある。道徳が環境によって学習されるものならば、環境によっては道徳を学習しない人たち、または”間違った”道徳を学習してしまう人たちの存在を認めなければならなくなる。そうではなく、どんな環境でも道徳は学習されるのだ、と言うのなら、やはり道徳的事実は学習能力の――適応的な能力の――側にあるのだという反論が力を持つことになる。

この世界に普遍的に備わった性質があり、その中に道徳的事実が含まれているのだと主張することは可能だ。しかし誰もがそれを学習するならば、それを生得的な性質と区別するのは難しくなる。"普遍的な性質"についての議論も同様で、なんと言うか、全体的に反証可能性のとぼしい不毛な議論を呼びそうな説だ。

②反応依存性

この本は全体的にわかりやすいと前に書いたが、反応依存性の部分はその中にあってわかりにくい部分で、正直言ってちゃんと理解できた気がしない。

まず、これは「選択肢2」と謳っているのだが、実際には「選択肢1(正・不正の学習)」の発展のようだ。そういうことははっきり書いておかないと、斜め読みをするようなうかつな読者がもしもいた場合に誤読してしまうのではないだろうか(1敗)。

反応依存性の定義の説明は以下のようになっている。

では不正であるというのが反応依存的性質であるということは何を意味するのだろうか。大まかには、行為が不正であるのはただそれが観察者に否認(あるいは非難)を引き起こすような傾向をもつ場合に限る、ということである。(中略)我々はそのような行為が観察者にどのように思われる傾向があるのかということに訴えることなくしては、不道徳なものを取り出すことができない。このような仕方で、道徳判断は真理適合的(truth-apt)、すなわち真または偽であることが可能なものとして扱われうるのである。(後略)

(p.271)

ちょっと意図を把握するのが難しい文だが、他人に非難されることを恐れる気持ちが道徳を生み出した、ということだろうか。「これをやるとあの人に怒られる」とか「これをすれば怒られずに済む」というような気持ちが道徳心の根源だという主張なら、同意するかはともかく理解はできる。「お天道さまが見ている」というような言い回しが存在することも、この主張に沿っているように思う。

ただ、この主張は道徳を再定義していると考えられるが、これが標準的な定義と一致するのか、一致しないならどういう風に違うのか、ということが良くわからない。

また、文中でも言及しているように、「共有性」についてはほとんどない。

(前略)プリンツは彼が反実在論者を退けるのと同様の確信をもって相対主義(彼はそれを主観主義と呼ぶ)を明確に受け入れている。

(p.272-273))

むしろ「共有性がないこと」はメリットでり、それによってさまざまな文化における多様な道徳観を説明できるようになるという主張のようだ。その点は同意できるが、これには道徳の範囲に関する議論が難しくなるというデメリットもある。ある行動を誰がどう否認するかは最終的に"人それぞれ"だ。反応依存性の定義を使って、これは道徳的でこれは道徳的でないとかいうような議論を行うのは難しいだろう。

選択肢1(正・不正の学習)の議論と同じく根拠の有無はかなり怪しい。否認に対しての反応こそが道徳的な行動だということだが、人々がどんなことを否認するか、あるいはどんなふうに否認するのかについて言及しなければ十分でないように思う。

(前略)鋭い読者なら早々に指摘することだが、こうした見方では道徳的事実は偶然的となる疑いがある――すなわち、それらは一歩間違えれば異なっていたかもしれないということだ。(後略)

(p.271-272)

道徳が偶然的なものになってしまうという上の指摘に対して、

こうした含意は悩ましいものであるかもしれないが、それらはプリンツの見解の批判にはならない。ここで心に留めておくべきことは、プリンツが道徳的実在論は約束しても道徳的客観性は約束していないということだ。(後略)

(p.272)

これは偶然性があることを受け入れるという態度だと思うが、そのデメリットに無頓着すぎるのではないだろうか。たとえば波にゆられる水死体の動きに踊りとしての事実性が存在しないように、他人の反応に依存するだけの思考や行動に道徳としての事実があるようには思えない。他人の顔色をうかがって生きているだけの人間は道徳的だろうか? 私が何かを誤解しているのでなければ、プリンツは「水死体も踊っている」と言っているように見える。他人の言動に怯えるだけの”反応依存性”も道徳のひとつである、と。

ここが良くわからないところで、プリンツは到底成り立たない主張をしているように見えてしまう。もしも道徳にそういった事実があると受け入れたとしても、その場合、道徳の価値は否定されることになる。少なくとも全ての道徳に価値があると認めることはできなくなるだろう。

道徳進化論を受け入れたとしても道徳には少なくとも適応的な価値は存在するし、それは必要なものだろう。道徳を適応性から切り離そうとする試みは理解できなくもないのだが、その試みは道徳から”適応的な価値”を失わせてしまう。この選択肢は失われたものの代わりになるような価値を何も示せていないように見えるが、道徳に何の価値もないという意見は受け入れられないだろう。この本の記述が足りないだけなのかもしれないが、それについてもう少し説明が欲しいところだ。

③徳倫理学

(前略)我々は次のように問うべきである。すなわち、私はいかに生きるべきか。私が追求すべきことはどんな種類のものか、と。(中略)そうした問いは、以下のような問いへと我々を向かわせる。すなわち、私はどんな人間であるべきか。私はどんな特徴を持つのがよいのか。こうした特徴を表すギリシャ語は「アレテー(arete)」であり、しばしば「徳(virtue)」と訳される。徳倫理学と呼ばれるのはこのためである。(後略)

(p.273 - 274)

倫理学アリストテレスから始まったもので、現代の哲学者たちはそれをアップデートしようと試みているらしい。そのキモは”機能”という概念だ。

(前略)我々が道徳的に何をなすべきかは、我々が発達させるべき特徴の種類から導出することができる。そして我々が発達させるべき特徴の種類は、我々がいかなる種類の生物になるべく定められているかがわかればそこから導出される。そして(最後に)我々がいかなる種類の生物になるべく定められているかは、生物学的に与えられた我々の機能から導出されるのである。

(p.278 - 279)

(ちょっと文章が冗長では?)まとめると、道徳的である(良い)とは、それが機能を果たしている状態のことであり、人間の道徳を語るには人間の機能とは何なのかについて突き止めなければならない、ということだろう。

生物が、その特徴を活かさなければならないような義務が存在するかは疑問だ。生物の進化においてある特徴が退化してゆくことなど珍しくもないし、我々の体にもあまり使っていない"機能"は(盲腸とか)ある。有用な特徴を活かしてゆくのが”良い”ことだというのは理解できるが、それを目的とすべきだと言われると「ナイフがあるのだから人を刺せ」と言われているような気分になってしまう。

とりあえず、徳倫理学者たちの主張が成り立つと仮定して話を続ける。

もし人類に共通する”機能”を特定できて、それをベースにした徳を定義できるなら、共有性については申し分ないと言えるだろう。

事実性については、その機能が事実だと言える。もちろん機能が特定されていればの話だ。

価値に関しては機能の目的に依存する。それが価値のある目的ならばその機能にも価値があるし、それを果たそうとする行為にも価値が生じるだろう。これは適応的な価値だと言えるが、人に特有の機能がほかの生物のものとは違う特別なものだと主張する余地はあるのかもしれない。

全体的に、”人間の機能”というものを特定できるのかが鍵になると言って良いだろう。逆に言うとそれを特定できるまでは細かい議論はできそうにない。

しかし、この選択肢は別の方向から見ることもできる。この本の記述を信じるなら、徳倫理学者たちは人間とほかの動物の違いに拘泥するあまり生物そのもの機能性を見落としている。生物の機能とは生きること、在り続けることだ。

"在り続けること"を機能として考えれば、徳倫理学エスティズムに極めて近いものだと言える。また、”在り続ける”という言葉の解釈によっては、ミームの伝播に価値を見いだすこともできる。エスティズムは道徳だけを扱うものではないと書いたが、上の定義から始めれば徳倫理学も道徳の範囲を飛び越えてあらゆる価値を語ることができるだろう。そうなればエスティズムとの違いはほとんどない。

ひとつ違うのは、徳倫理学ニヒリズムを前提にしていないということだ(アリストテレスの時代 に生まれたのだから当然だが)。 単にそこまで考えていないだけという気もするが、もしそうでないのなら新たな知見を得られるかもしれない。徳倫理学ニヒリズムを前提にしない理論を打ち建てて単独で成立しているのなら、それと似たようなことを言っているエスティズムにもその理論は適用できるはずだからだ。

エスティズムの前提にニヒリズムを置くことは今まであまり疑ってこなかったが、考えてみる価値があるかもしれない。今後の課題にしておこう。

④道徳的構成主義

これも定義から確認しよう。

第一に、我々は自分の振舞いに対して他人がいかに反応しそうであるかを考慮する傾向性を進化させた。(中略)特定の社会的視点を共有した他者が、自分の行為にどのように反応するかを深く気にかけた初期の人類は、それを気にかけなかった初期の人類よりも多くの協力的なやりとりによる利益を享受した。(後略)

(p.282)

以上が道徳的構成主義の起源についての解説のようだ。具体的な定義は、おそらく次の部分になる。

(前略)私の理論では、ある行為は、他者――行動を規制する一般的規則に関心のある者――がその行為に反対する傾向があるだろうと考えられるような場合、またその場合に限り、不正である。この説明は、哲学者のT・M・スキャンロンの先駆的仕事を敷衍したものであり、スキャンロン自身は、哲学者のジョン・ロールズの研究を基礎に理論を作った人物である。スキャンロンは、ある行為が不正であるのは、それがすべての人が受け容れることのできる原理を探している誰によっても、合理的に拒絶されうる行為である場合であり、またその場合に限る、と主張している。それゆえ、道徳は構成ないし手続である。正と不正は、何であれ、この仮説的手続の中で生き残ったもののことである。

(p.285-286)

これは選択肢2(反応依存性)をマイルドにしたようなものだと考えられる。我々の道徳は反応依存的であるが、それは他人の反応の向こう側に合理性や一貫性のある思考を想定しており、その”想定された合理的な思考”こそが道徳の根源だという説だろう。

共有性に関しては、反応依存性とある程度同様だが、それよりは高いと考えられる。人間が予想する”合理的な思考”というのはある程度の普遍性を持つ……というかそんなにバリエーションはないだろうからだ。少なくとも、同じコミュニティーの中では一定の価値観として共有されるだろう。

コミュニティーを超えた共有性は基本的にないと考えられるが、しかし道徳の根拠として合理的思考を想定しているのであれば、その合理性について議論する余地がある。複数のコミュニティーが価値観を持ち寄ることで、より普遍的な合理性を持つ道徳へと洗練されてゆくというようなことも考えられるだろう。

事実性に関してはおそらく問題ない。反応の向こう側にある合理的な判断、またはそれを生じさせる反応が道徳的事実だと言えるだろう。

価値についてだが、道徳的構成主義は進化倫理学の立場を採る*2と言っているので、適応的な価値があると考えられる。具体的には、相手側の否認行動は適応的に進化したものだろうし、その否認を避けようとする感情はストレスを緩和することによって共同体の維持に役立つだろう。意思決定の円滑化や危険回避の知識を共有するという点でも価値を持つと考えられる。これは前述した「特殊な適応」の観点からは、共同体での生活に特化した適応だと言えるだろう。

まとめると、全体的に穏当でバランスが良い説だと思える。なので書くことがあまりない。強いて言えば、他の適応的能力とは違う特別な価値を示せていないという問題はあるかもしれない。そもそもそんな価値を示すことはできるのか、という問題もあるが。

ただ、道徳的構成主義はこの本(進化倫理学入門)の筆者が提唱している説だということに留意しておく必要はあるだろう。筆者が自説をえこひいきしたとまでは言わないにしても、他の説に比べて詳しく正確な解説になっている可能性は高い。

反論、批判

さて、本では”選択肢”の解説に続いて、それに対する反論が展開されている。前回にも名前が出てきたリチャード・ジョイスという哲学者によるもののようだ。選択肢2(反応依存性)と選択肢4(道徳的構成主義)に対するものと、選択肢3(徳倫理学)についての反論がある。

2と4に対するものが最も分量が多く、「不完全性」、「実践的重要性」、「内容についての問題」という3つの視点からそれぞれ議論されている。上記の議論の答え合わせも兼ねて参照してみる。

不完全性

(前略)ジョイスは次のように問う「[ある者](Xにとって)道徳的に不正であるとは、Xに否認を生じさせるものであるとされるが、それは、十分な情報の下での話なのか、不偏的な注意の下でなのか、冷静な反省の下でなのか、あるいはそれ以外の状況下でなのだろうか」(2008 : 252)(中略)だが仮に我々が、不正さはもしXがその問題に十全に注意しているならばXに否認を生じさせるであろうものに依存すると主張するとしよう。だとしても、Xに否認を生じさせるであろうものは、Xがザンビアの野生の中で育てられたのか、元気のないアメリカの十代の若者か、テルアビブの年配のユダヤ人かで、依然として差異が残ったままになろう。これらすべてのことは、最初に想像されたものと比べてずっと極端な相対主義をもたらすように見える。ジョイスに言わせれば、「プリンツ流の自然主義にとりついている怪物は、最も急進的で激しい種類の相対主義である」(2008 : 252)。

(p.288-289)

前半の「十分な情報」や「不偏的な注意」についての議論は、私が言うところの事実性についての話だと思う。選択肢2(反応依存性)のところで水死体がどうのと趣味の悪い例えを交えて議論した話だ。後半の「人による差異」の部分は共有性についての話だろう。

プリンツにかわって、次の解決策を示すことができるかもしれない。すなわち、ある行為は、XがABCの性質を有し、そしてDEFの状況下にあることを前提として、それがXに否認を生じさせる場合に、かつその場合に限り、不正である。つまり、事前にすべての「適切な」状況を明確に定めるということだ。(後略)

(p.289)

この本の著者による反論が以上だが、これは事実性について一定の手当をする一方で共有性についてはむしろ後退している。著者自身も後で言及するように、”DEFの状況”及び”ABCの性質”を共有していない人物にとってこれは「ある行為」を否認する理由にはなりえない。

また、選択肢2(反応依存性)の事実性が曖昧だという指摘は私も同感だが、選択肢4(道徳的構成主義)については疑問だ。「合理的な思考」という概念は、多少のぶれはあるとしても事実性を失わせるほどの範囲があるとは思えないからだ。しかし道徳的構成主義の提唱者でもある著者は、その指摘が道徳的構成主義にも及ぶと考えているようだ。ここはちょっと良くわからなかった。

一方、”共有性の欠如”については、やはり道徳の性質について上手く説明していると言うべきではないだろうか。たとえば中世の侍や農民たちは現代に生きる日本人とはかなり違う価値観を持っていただろうが、道徳について考える時に彼らの考えを考慮したことのある人はいるだろうか、また、彼らの考えを調べて考慮するべきだと感じたことはあるだろうか? もちろん、共有性のない道徳は「どこまでが道徳的か」という議論の対象になりえない。しかしそれについては選択肢4(道徳的構成主義)のところで書いた合理性を元にした議論、または適応性を元にした議論を行って"共有性を高めてゆく"ことが可能だろう。……選択肢2(反応依存性)についてはアイデアを持っていないが。

実践的重要性

(前略)つまり、道徳判断は、我々の判断と合致した行動をするように(いかにわずかであろうとも)我々を動かす。人工妊娠中絶は不道徳であると主張するのに、中絶を回避することを(あるいは中絶をする人を非難することを)全く実践しない人がいたら、その主張には明らかな疑念が生じる。今もし道徳的な不正さとは、状況DEFの下で、性質ABCを有する誰かに否認を生じさせる行為の性質のことであるとしたら、これは道徳判断が持つとされる実践力を省略してしまうように見える。(後略)

(p.289-290)

これは前述した「”DEFの状況”及び”ABCの性質”を共有していない」場合における問題だ。なので、前述した共有性についての議論が有効だろう。

内容の問題

(前略)反応依存性[の理論]と/または道徳的構成主義が不正であると認識する行為は、常識的な道徳感覚が不正であると認識する行為と同一だろうかという疑問に関わっている。ジョイスは両見解が「直感的に不道徳」であるいくつかの行為を容認可能なものとするであろうと予見する。「(たとえば)合理的であることが民族浄化の選考を排除するであろうということでさえ、我々にはどうやってわかるのだろうか」(2008 : 257)とジョイスは問うている、(後略)

(p.291)

反応依存性と道徳的構成主義が定義する道徳は既存の道徳の定義と一致しない可能性があるという指摘だが、これにはいくつか疑問がある。

引用箇所では民族浄化を例に取っているが、たとえば合理的に考えることのできてかつ”その件に利害関係がないような人物”を想定した場合、民族浄化に対して否認を示すと考えることは別に不自然ではないだろう。それが確実性に欠けるという指摘は確かに成り立つだろうが、それを言うのならそもそも確実に機能する道徳心などというものがあるとは思えない。それがあれば民族浄化など最初から起こらないだろう。

なぜ”利害関係のない人物”を想定しなければならないか。それは我々が道徳にある程度の普遍性を求めているからだろう。なぜ普遍性を求めるかと言えば、一部の人間の利益によって道徳が操作されて社会や我々に損害を与える状況を避けるためだ。これは4.道徳的構成主義にとっては”共有性の高まった良い道徳”を求める方向性だと考えて良いだろう。選択肢2(反応依存性)については相変わらず良くわからない。……やはりこれについては説明が足りていない気がする。

また、既存の道徳と一致しないからといってそれが問題なのかという反論もありうる。一致しないことが問題であると言うためには、既存の道徳の価値を示した上で、それと比べて反応依存性と道徳的化構成主義が示す道徳は劣った価値しか持たないのだと主張する必要がある。それは簡単な作業ではないかもしれないが、しかし建てたこともない設計図を持ち出して「この家は設計図と違う」と主張しても始まらない。まずはその設計図で本当に家が建つことを最低でも示すべきだろう。

倫理学

(前略)以下のことについて考えてほしい。心臓は血を送り出すべきであると言うことはできる。[しかし]心臓は血を送り出すことが求められている、あるいは義務づけられている――あるいは実践的要請という意味で、心臓は血を送り出すべき理由を有していると言うことは、それとは全く異なることである。しかし、後者の話し方は、まさに道徳的「べし」を特徴づけていることである。たとえば、あなたは約束を守ることを要求されているとか、あなたは不必要に人々を害してはならない理由を有していると言われる。明らかに、生物学は道徳的領域が示す種類の規範的な力を与えられそうにない。

(p.292-293)

これはヒュームの法則について言っているのだろう。徳倫理学者たちは「その機能を良く果たすものは良いものだ」と言っているが、それを受け入れたとしても”良い、”という言明から”べき”という規範を導くことはできない。これは確かに成り立つ批判だとは思う。

しかし、なぜ徳倫理学への批判の時だけヒュームの法則を持ち出すのかがわからない。ヒュームの法則は全ての道徳理論への批判だから、他の選択肢に対しても同じ批判が当てはまるはずだ。この本では、ヒュームの法則を持ち出しただけで「よく言って、自然化された徳倫理学は進行中の仕事である。(p.293-294)」と片付けてしまっているのだが、ならばなぜ他の選択肢についてもそう言って片付けてしまわないのだろうか?

この本は(あるいは参照しているリチャード・ジョイスの意見は)徳倫理学に対してだけ当たりが強すぎるように見えてしまう。それとも、私が読み取れていないだけで他の選択肢ではヒュームの法則をクリアしている、あるいは徳倫理学に特有の事情があって「〜するべきだ」という道徳の性質を満たす必要が特別にあるのだろうか? しかしそういった事情を示唆する記述は見当たらない。

ところで、徳倫理学エスティズムの関係について上述したが、”エスティズム的な徳倫理学”について上記の批判に反論すると「道徳だけに留まる理論ではないのだから道徳に関しての批判は当たらない」ということになるだろう。”価値”が生じる過程については当たらないこともないのだが、これについてはヒュームの法則について(多分次の回で)書いてみる予定があるので、その時に議論する。

理想の実在論

本で紹介された道徳実在論についての議論は以上だ(あのアホみたいな図はほとんど役に立たなかった……)。

個人的には道徳に特別な価値があるとは考えていない。心臓や脳に比べて生きるために必須のものというわけではないし、適応的な価値としてもそれらに劣るものしかないと言うべきだろう。

だが、それでも道徳に特別な地位が与えられるとすれば、それは「道徳がなければ社会が成り立たない」または「知的生命体の成立には道徳が必須である」とした場合だろう。前者は成立する主張なのか不明で、後者に至っては議論をするための糸口さえ定かではないが。

エスティズムの評価

さて、”共有性”、”事実性”、”価値”の3つの観点から道徳実在論を見てきたわけだが、エスティズムを”広い意味での道徳理論”として見た時に上記の性質がどう解釈されるか、手前味噌だが検討してみる。

まず共有性についてだが、これは「非常に高い」と言って良い。エスティズムは生命全体に関わる理論なのだから、全ての生命において共有できると考えて良い。「ミミズもオケラも、宇宙人も」共有できるはずだ。

事実性はある。生命に生きる意思というか、そういった方向性があることは疑いようのない事実だろう。

価値についてだが、適応的な価値があると言って良い。適応的な価値を超えるものがあるのかという議論だが、これには「エスティズム自体の価値」を考えなければならない。価値を語る理論自体の価値を考えるというのは神学論争的なものになりそうなのでここではやめておく。

”価値”については不明だが、”共有性”と”事実性”については問題ない。中でも共有性の高さは特筆すべきだろう。

と、手前味噌な自画自賛をしたところで今回はこのへんにしよう。次回はヒュームの法則(ヒュームのギロチン?)について書く予定だ。

*1:ところで、本論には(おそらく)関係ないのだが、ここらへんの議論は「道徳的動物は人間だけとは限らない」という建前を忘れてしまっていないだろうか?

*2:より正確には、道徳的事実を追跡する”追跡説”の立場を採用するようだ