愛がなければ世界は無だ、ということについて

エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

新しい倫理哲学の提案 または、愛がなければ世界は無だ、ということについて

これは私の考えた(多分)新しい倫理哲学について書いた文章だ。この哲学の元になるアイデアは20年以上も前に思い付いて温めてきた。その間、明らかな間違いや狂った結論を導くなどの大きな瑕疵も見つからず、調べた限り既出でもなさそうなので、ここにまとめてみることにした。

この文章では倫理や道徳、あらゆる価値判断の起源とはどういうものか、ということについての主張を行う。哲学に馴染みがない読者にもわかりやすい書き方になるように努めたつもりだ――というのは建前で、私自身が哲学畑の人間ではないのでこういった書き方にならざるを得なかった。哲学に明るい人にはまだるっこしく感じるかもしれないが許して欲しい。

最初の章では起点となる考えを説明し、次の章ではその実践についての議論をする。起点の説明では、この哲学の基礎的な考えについて説明し、最低限の妥当性についても確認する。実践についての議論では、ひとつの議題ごとに、この考えによってどんな道徳が生み出されるのか、既存の道徳や価値観をどう説明するのかについて論じる。この哲学が道徳の起源として十分に妥当なものか、という問いに答えはないだろうが、それらの議論によって傍証を示すことくらいはできたと思う。

既存の哲学では(調べた範囲では)進化倫理学というアプローチが私の哲学には最も近いようだ。しかし起点となる考え方に違いがあり、それによって議論の内容もだいぶ異なるようなので、これを書く価値はあると判断した。また、理論の構築方法は功利主義のそれに近い。これについても後の方で触れてみる。

また、愛や魂も昔からの哲学の対象だが(最近はあまり扱っていないのだろうか?)、この哲学ではそれらについて一定の解釈を示すこともできると考えている。

起点(生命と虚無について)

世界の根本は虚無である。それは覆しようがない。

虚無の世界では、あらゆるものに価値がない。土星の輪の中の氷の塊と、そのへんに生えている草との間には何の違いもない。あなたが子供の頃に大切にしていた宝物も、博物館に飾られている美術品もすべて等しく価値がない。

虚無の世界では、空と大地の区別さえない。暑さや寒さ、距離や空間や時間に至るまで、あらゆるものに何の区別も見出さない。それが虚無の世界だ。あなたの心臓が動いていようが止まっていようが、そこでは同じことだ。

我々は当たり前のように目の前のものを見ている。これは机だ、これは壁だ、あれは窓だと思っている。それは価値観があるからできることだ。それに名前を付ける価値があると判断するのも、どんな名前を付けるのかということも、価値観がなければできないことだ。

我々は虚無の世界では生きてゆけない。生きてゆくためには価値観が必要である。

それは思想や哲学と言い換えてもいい。虚無が自ら価値観を差し出してくれることはありえないのだから、それは作るしかない。

虚無の世界は我々に何も与えてくれない代わり、何も強制しない。だからその価値観は自由に作ることができるように見えるが、そうではない。

必要な性質について

我々の価値観には、3つの性質が必要である。無矛盾性、網羅性、持続可能性だ。

  • 無矛盾性

言わずもがなだとは思うが、価値観がそれ自体に矛盾を含んでいてはならない。例えばだが「すべての価値観は平等であり、尊重されるべきだ」という考えは美しく見えるかもしれないが、「他の奴の価値観はゴミだ」というような価値観を扱うことができずに破綻する。

「どうして矛盾していてはいけないのか」と問うめんどくさい人真摯に読んでくれている読者がいるかもしれないが、簡単に言うと「何でもありになってしまうから」だ。正確には「矛盾からはあらゆる結論を導けてしまう」という問題なのだが、詳しくは論理学の適当な入門書にでも当たって欲しい。

  • 網羅性

我々の価値観は、ありとあらゆる価値判断をカバーできなければならない。「ブリは美味しいので保護すべきだ」という価値観は、ハマチを保護すべきかどうかという決断の役には立たないし、人を殺した罪人を処刑すべきか、という判断を下すための根拠にもならない。

我々は何もない虚無の世界から始めるのだから、白黒つかないことがあったとしても他のところから判断基準を持ってくるわけにはゆかない。

すべての判断を明確に行えなくてはならないとは言わないが、少なくともその判断材料くらいは提供できなければならない。

  • 持続可能性

矛盾がなく、すべての価値判断を網羅する価値観があったとしても、それを実行できないのであれば意味がない。例えばだが「呼吸をする者は悪だ」というような、それに従おうとした瞬間に死んでしまうような価値観では困る。

以上の3つが、我々が求める価値観に対する要求だ。そんな都合のいい価値観があるのかと思うかもしれないが、結論から言うとそれはある。あるどころか、我々はそれを既に知っているし実践している。

その価値観とは、“生きたいと思うこと”だ。もう少し正確に言うと“在り続けようとする指向性”。詩的な表現が欲しいのなら“愛”と言ってしまってもいい。

それを説明するには、生命の起源について語らなければならない。

生命と価値の起源

地球上に最初に誕生した生命がどんな姿をしていたのかは分からない。海の淀みに集まったヘドロのような有機物の塊だったかもしれないし、地底の岩石の間に挟まれた液体の拍動のような現象だったのかもしれない。

だが、ひとつだけ確かなことがある。それが「生きたい」、「在り続けたい」という“意思”を持ったことだ。

もちろん、その生命と呼べるかどうかもギリギリの物体が思考するための機能を持っていたはずはない。それはたまたま生まれた指向性というか、良く言ってもそういった方に向いた傾向という程度の、偶然の現象だったのだろう。

生命のスープと呼ばれる海の中で、あるいは燃えたぎる火口の隙間で、そんなふうに「生まれようとしたもの」は無数に存在し、そのほとんどすべては、その意思を果たせずに虚無へ帰っていったのだろう。

だから、我々の祖先がその“意思”を果たすことに成功したのは奇跡と言っていい。それは生き延びて自らのコピーを増やし、たどたどしいながらも進化のようなことを始めて、やがて多様な姿の生命に分化して地球を埋め尽くした。

そしてそれは、今も生き続けている。

人間も、森に住む動物も、海底で揺らいでいる海藻や、火山の火口にへばりつくように生きている微生物も、すべて引っくるめてその「最初の生命」が変化した姿に過ぎない。その凶暴なまでの意思で障害を打ち壊し、増え続け、そして自らの形さえも変えていった。それが生命だ。

「生きたいという意思を持ち、それを満足させているもの」。それが生命であると、私は定義する。

生命の本質が意思であるとするならば、その意思を持つ物質が活動を続けている状態を“生き続けている”と言う以外にどんな解釈があるだろうか?

生命は今でもひとつだ。我々は原初の生命の一部であり、そしてそれは今も生き続けている。これは1つの見方に過ぎないと言うことはできるかもしれないが、だが厳然たる事実だ。

だから、愛とは究極的には自己愛である。生命を尊ぶということは最終的に自分自身を愛することだ。

そして我々が「生きたい」と思うことによって、この世界には差異が生まれた。すなわち、生きる上で有利なことと有害なこと、どちらでもないことがその意思によって区別された。それが価値だ。

生きるために有用なものには高い価値が与えられ、そうでないものには低い価値が、そして有害なものには負の価値が与えられ、それを取り除こうとする行為に正の価値が生まれた。

それこそが我々が持つべき価値観だと私は主張する。それはある意味場当たり的なものと言えるかもしれない、必要かそうでないかという“都合”によって作られた価値である。だが、我々は生命の一員であり一部であり、そうでないままに生きたことなど一度もない。もしもそうでない生き方を見つけたいのなら、もう一度虚無の中に戻ってやり直す以外に方法はないだろう。

その価値観において、最も重要視されるのは生命全体の生存である。原初の生命の生存と言い替えてもいい。そしてその一部の生命(種や個体など)が生き延びることは、その全体の生存に寄与するという意味において“善い”ことだと解釈される。つまり、一部でも生命が生き残ればそれは全体としての生命が生き延びているということであるし、そうでなくても生態系の一員として全体の生存に寄与していると解釈できる。

この価値観は我々の本能の中に既に組み込まれている。だから、これはまったく新規性のない考えだとも言える。38億年ほど前に既出のものであり、実践と応用は数多の生物種によって散々にされ尽くしている。

用語の定義

ここで、いくつかの用語を決めておこう。

まず、すべての生命を単一の存在とみなしたものを「一つの命」と名付ける。

そしてその「一つの命」の尊重(=存続)を至上の価値とするこの哲学を、“存在”という意味の語“est”から取って「エスティズム(estism)」と名付ける。

また、日本語では「利在主義」という名前を考えた。“存在を利する”ことを目指すので「利在」とした。特に理由はないがこの文章では「エスティズム」の方を採用する。

また、命に対する利益、生存の確率を高めたり遺伝子・模倣子の伝播を助けたりすることを「命益」と呼ぶことにする。これは利益や便益の親戚のような言葉で、個の生命だけではなく、集団や一つの命にも適用される。「食料援助は大勢の人の命益を高める」とか「この政策は我々にとっての命益になる」というような使い方をする。

必要な性質について(続き)

「3つの性質」の話に戻ろう。件の価値観――エスティズム――に必要なのは、無矛盾性、網羅性、持続可能性の3つだった。

  • 無矛盾性

エスティズムとは「生命全体の生存は最も高い価値を持つ」という主張だとみなすことができる。よって、その逆「生命全体の生存よりも高い価値がある」という主張を否定することができれば、その無矛盾性を証明できたことになる。

まず、上記の価値は何の価値基準も存在しないところから作ったのだから、まったく関係のない他の価値が出てくることはあり得ない。また、上記の価値から派生する価値については元の価値を実現する中で生まれる。例えば「種の存続は生態系の維持や一つの命の生存に資するので善いことである」といったように、派生した価値は派生元の要求を実現することによって、その実現度合いに応じた価値が生まれる。よって、それが元の価値を上回ることはあり得ないだろう。

以上の議論で、無矛盾性という条件は満たしているとみなしていいだろう。

  • 網羅性

生き物の思考は生存を目的として作られている。よって、我々が望むものや問題とするものはこの理論――エスティズム――によって扱うことが(はっきりした結論を出せるかは別として)可能である。逆に、エスティズムによって扱えない問題は、我々の生存にとっても意味のない問題である。

生存を目的としない思考が存在するか、ということだが、大まかに2つ考えられる。進化上のバグのようなもの、もうひとつは、高度に発達した思考がもはや生存という目的とはかけ離れてしまうこと。

バグに関しては、生存のために必要な誤差と言うか、余裕のようなものだと理解できる。それが必要な余裕であれば、その必要性に応じた価値を考えることができる。

高度に発達した思考については、エスティズムの理論を同じように発達させてゆけばいいだろう。最終的に発達し過ぎてわけがわからないものになってしまうのかもしれないが、わけがわからないものならわけがわからないもの、つまり、価値のないものとして扱う。

以上によって、網羅性を満たしていることが(恐らく)証明される。

  • 持続可能性

生存とはすなわち持続性であり、この哲学は生存を最も重視する価値観である。もちろん、生存を最も望む者と実際にそれを手に入れる者が必ずしも同じだとは限らない。しかし、“生存と関係のない志向の持ち主が運良く生き延びる確率”よりも“生存を目的として活動する者が生き延びる確率”の方が高いだろう。よって、この哲学及びその実践者は、考え得る限り最良の持続可能性を持っていると考えていい。

――以上の議論によって、3つの性質に関してはだいたい満たしていると言っていいだろう。

実践(生命と社会についての議論)

今までの流れをまとめよう。

  1. 真実は虚無であるが、それは辛過ぎる。

  2. 妥協して価値観(哲学)を作ろう。ただし3つの条件がある。

  3. 生命とは「在り続けようとする意思」だ。

  4. その意思によって物事に価値を見出せる。これを我々の価値観としよう。

  5. 条件は3つともOK。

これは生存を価値とする哲学であり、それを根拠にして倫理を構築してゆこうという試みであり、生命への信仰のようなものでもある。

3つの条件を満たしたことで、道徳や価値観の起源としての必要条件は満たしたと言っていいと思う。だが十分条件を満たしたと言えるわけではない。そのためには、この哲学の妥当性を示す事例を積み重ねるしかないだろう。

この哲学が具体的にどう機能するのか、ここからは説明してゆこうと思うが、その前にこの哲学を実践する上での2つの立場について触れておく。

1つ目の立場は生物としての立場からのアプローチである。1種の動物としての我々がどんな倫理を持つべきかについて議論する。

もうひとつは社会としての立場からのアプローチである。国や共同体などの社会による要請や、そこにおける正義とはどんなものかについて議論する。

生物としての立場からのアプローチは、だいたいにおいて直接的で確度が高いが論理としては“弱い”。根源――一つの命――に近い側から論理を構築するため確実である一方、あまりはっきりしたことは言えない傾向にある。「生きろ」という以外に生物はこうあるべきだ、という指標など存在しないのだから当然ではある。

社会としての立場からのアプローチは確実性では劣るが、論理としては“強い”。社会の都合や利害から考えて論理を構築するため、生命という根源からは遠く、間接的な理路を通らざるを得ない。おまけに社会とは複雑系であるため、その結論は確実とは言えない傾向にある。一方で、“生命全体とその一部分としての我々”よりも“社会とその構成員としての我々”の方が距離としては近いため、はっきりしたことを言いやすい。これは、はっきりした結論を出し過ぎることにも繋がるので、注意も必要だ。

大まかに、生物としての立場からのアプローチは“基本”。社会としての立場からのアプローチはその“応用”だと考えることができる。

まずは基本から議論してゆこう。

生きようとする意思と、その対立

生きようとすることは善いことである。生きたがり、在りたがることは生命の本質だからだ。個々の生命について考える場合、これが基本になる。

同種の個体、特に自身の子を守ろうとするのは生きようとする意思の延長である。それは少しでも近い遺伝子を遺そうとする行為であり、自身の生きた証である摸倣子を遺そうとする行為でもあるだろう。

生命の基本は利己であり、どんな状況だろうとも、自己犠牲を強いる絶対の義務などない。利己的な感情はとかく嫌われがちだが、本当は最も称賛されるべきものだ。それなくして我々は生きてゆけないのだから。

個体同士が対立するのは「対立している状態が正しい」とみなすことができる。つまり、彼ら――例えば逃げようとするウサギとそれを食べようとするオオカミ――が対立し競争することによって、より生存性に優れた生命が生まれてくる。それによって生物全体の命益が高まっているのだと解釈できる。同種や、共生関係にある個体同士の対立は少し複雑だが、基本は同じだ。ただ、これらの場合は“個”としての利害よりも集団の利益を優先した方が有利になることも多く、社会的な問題であると言えると思う。社会と個との関わりについては後述の「応用」の部分で議論する。

本能と感情

恐怖や悲しみはネガティブな事態から我々を遠ざけるために存在する。怒りや好奇心、食欲や性欲はその逆に、我々を誘導する役割を果たす。本能や感情とは、水先案内人である。

人の心は弱いと良く言われるが、心とは弱い必要があるものなのだから当然だ。どんな感情にも左右されない鋼のような心を持ってしまったら、感情の存在する意義はなくなってしまう。一方で、その感情を整理して抗うための能力も我々は持っている。

本能や感情は遺伝子が作り上げた優れた武器だ。生命が長い時間をかけて得た経験とノウハウがそこには注ぎ込まれている。

感情をないがしろにするべきではない。それは生存のための強力な武器をむざむざ捨てる行為だ。制限プレイか。

だが、それだけに心を委ねるべきでもない。いくら優秀な道具でも、それに振り回されて肝心の目的がおろそかになってしまうのでは意味がない。

大事なのはバランスである。

自由の価値は

短期間の生存だけを目的とするのであれば、個体の、自由を始めとする生存の質は問題ではない。意識のないままで延命されていようが、カプセルの中で脳だけになって能動的な行動をすべて禁じられていようが、生きてさえいればそれでいい。

しかし永い時間を生き続ける上で、経験の蓄積とその継承を効率良く行うことは必須だと言っていい。我々が遺伝子(ジーン)や模倣子(ミーム)を遺す上で、自由に生きて経験を積む、あるいは自由に繁殖相手を選択し合うことは不可欠な要素だ。

生き延びることが最も重要だからこそ、生存の質――主に自由であること――は重要である。

遺伝子と模倣子

遺伝子の働きが生命にとって重要なものであることは論を俟たない。では我々は遺伝子の戦略に服従し、その奴隷として生きるべきなのかと言えば、答えは否だ。

まず、遺伝子の戦略は、それに我々が積極的に加担することを想定していない。ゆえに、遺伝子の戦略に従うことができるという前提がまず成り立っていない。

遺伝の働きは、本能や感情などと同じく、我々の武器のひとつとして捉えるべきだ。

誕生して間もない生命に現在のような形態の遺伝子の仕組みが備わっていたとは考えにくく、そうでなくても子とは所詮親を模倣するものであり、そこに厳密な意味での継続性はない。これは存在とは何か、という問いにも関わる議題だが、自分に似た者を生み出すという営みが広い意味で継続しているのなら、それは生命という活動が――あるいは存在が――継続しているとみなしてもいいだろう。つまり、遺伝の本質とは精度の高い模倣であり、遺伝子とは模倣子の一種だとみなしていいだろう。

また、遺伝以外の模倣子の役割を軽視するべきではない。収斂進化の一部などでは、模倣が進化に影響を及ぼしたと考えられる例もある。遺伝子とは生存のための手段のひとつに過ぎず、もちろんそれは重要な手段であるが、それだけしか採用してはいけないという義務はない。何より、我々の文化、科学、言葉、文字や数字、テクノロジー、政治、経済、これらはすべて模倣子の働きによるものだ。我々のような知的生命体にとって(言うほど知的なのか、という問いは置いておいて)遺伝子以外の模倣子の役割は極めて重要であり、それは決して遺伝子に劣るものではない。

用語について補足する。上述したように「遺伝子とは模倣子の一種」だというのが私の立場だが、それを貫こうとすると、遺伝子以外の模倣子について書く度に「遺伝子以外の模倣子」と書かねばならず、長くなる上にわかりにくい。今後注釈なしに「模倣子」と書く場合は「遺伝子以外の摸倣子」のことだと解釈して欲しい。

生存の定義

生存について複数の方向性があり、どちらが正しいとも言えない場合がある。

例えば地球があと1000年後に滅亡すると仮定する。我々は恐らく他の星など、外の生存圏への脱出を図るだろう。座して死を待つよりも生き延びることを選ぶ、それが生命として正しい行為だということについて議論はない。

では、脱出の努力によって悪影響がある場合はどうだろうか。例えば何もしない場合は確実に1000年の時を生きられるが、脱出のために努力をした場合は100年もせずに地球が滅亡してしまい、少なくない確率で脱出も失敗に終わる。そうした場合、地球からの脱出を試みるのは正しい行為だろうか?

この問題はいろいろと条件をいじる余地がある。例えば地球の滅亡が1000年後ではなく10日後だったらどうだろうか。脱出の成功率が0.01%にも満たないとしたらどうだろうか。

これは、一概にどちらが正しいとも言えないと考える。どちらも生存を目指している点では同じだからだ。

もっと究極的な状況下での問題もある。遥か遠い未来、生存のための障害がすべてクリアされて、何もしなくても存続できる、となった場合、その状況下で何もしないことを選択した者を生命と呼べるだろうか?

これには3つの立場があり得る。

1つ目は、活動を行っていない者は生命とは呼べないという立場である。将来に渡って活動を行う余地のない者はただの物体であって生命とは呼べない、という主張だ。

2つ目は、どんな状態であろうとも存在が継続している以上は生命であるという立場だ。存続に影響がないのなら活動していてもいなくても同じだ、と考える。

3つ目は、生命とは死に抗って活動する者のことであり、死ぬ可能性のなくなった者はその時点で生命とは呼べないという立場だ。

個人的には1つ目の立場を支持したいが、他の立場を否定する根拠を持っているわけではない。これは生命の根源に関わる問題であり、論理的な結論は出せない類の問題だろう。

利害調整と社会

ここからは応用編だ。我々と社会の関係について議論しよう。

まず、正義とは社会の都合である。殺人や窃盗は社会の安定を脅かすために禁止されているのだし、自己犠牲を尊ぶのは社会の安定や、ひいては戦争への参加を奨励するためだ。隣人愛が奨励されるのも同じ理由だろう。

群れを作りそれを発展させる中で、我々が個々に散らばって単独で生きていた頃なら必要のなかった規則が必要になった。人間は社会性を持った動物だが、高度化した社会に存在する利害は直感的に理解できるものばかりとは限らない。“正義”とは、社会が求める価値観の内の我々に元々備わっている欲求を除いた行為を奨励し、我々の欲求の中で社会にとって都合の悪いものを禁止する規則の集合だと言っていいだろう。だからその規則は我々の動物としての欲求を軽視する傾向がある。

社会の存続は、多数の人々を生かすために必要である。社会の利害と我々の個としての欲求はしばしば食い違うが、個の生存と社会の存続は別個の構造についての話で、本来は並列して語られるべきものだ。盗んででも肉を食いたいという気持ちと、泥棒を許さないという正義はどちらも生存のための価値観であり、善いことである。しかし残念なことに世界に存在する肉は有限であり、適切に管理されなければ奪い合いによって社会秩序は崩壊し、畜産農家も家畜を育てるどころではなくなってしまうかもしれない。そうなれば個の欲求も社会の利益も共倒れだ。そうならないために、それぞれの利害を調整する必要がある。

以下の3つの原則が挙げられるだろう。

  • 上位構造を優先する。

  • 余裕を持つ。

  • 構成員を守る。

まず、「上位構造を優先する」。肉の例えでも書いたように、個の欲望のために社会を犠牲にするのは本末転倒な結果を招くことが多い。これは例えば国と人類のような関係の場合にも同じことが言える。個よりも家族が、家族よりも町や村などの共同体が、町や村よりも国や民族の生存が優先され、国や民族よりも種の生存が優先される。

次に「余裕を持つ」ことが必要だ。為政者にも個としての利害が存在する。彼らには社会の利益を代表してもらわなければならないが、個としての命益を求める気持ちを完全に排除することはできないし、するべきでもない。ならばそれを織り込んだ社会設計を行うべきだ。

自分の利益だけを優先できないよう、為政者の権限を制限する必要がある。特に、構成員の生命など重大な命益に関わるようなことについては慎重に行うよう枷をはめておく必要がある。――要するに立憲主義が奨励される。

また、社会の規則はまだ起きてもいないトラブルを調停するためのものだから、それを策定するには未来予測の能力が要求される。その能力を過信するべきではないという意味でも、余裕を持った規則にしておく必要があるだろう。

そして、社会は「構成員を守る」必要がある。これは社会の本質的な目的であり、構成員を守らない社会に存在価値はないからだ。秩序の維持も社会の存続も、構成員全体の命益を高めるために必要なものであり、それ自体が自己目的化してはならない。

以上が原則だが、それらではカバーし切れない例外的なケースについても触れておく。

「上位構造を優先する」のところで書いたのは、社会の利益を守ることが結局は個人の利益になるようなケースについてだったが、社会と構成員の利害が本質的に対立する場合がある。猟奇殺人鬼やテロリストなどが典型的だ。社会の要請と相容れない性質を身に付けてしまった者、現在の社会と自分の利害が決定的に食い違ってしまった者たち。そこまで過激な対立ではないにしても、例えば左利きの生きづらさのような、あるいは社会生活に適応できない人のような、社会と自分は合っていないが自分に合わせて社会を作り直すほどのコストはかけられない、そんな対立もあるだろう。

それらの対立をどう考えるか、社会の都合と彼らの都合、正しいのはどちらだろうか?

共同体が彼らを包摂できるようになるのが理想だが、それは可能だとは限らない。そういった場合はもう、基本に立ち戻るしかないだろう。つまり「対立している状態が正しい」という自然界の基本を適用する。そうなれば共同体と個人とは、もはや一匹の獣同士として対峙するしかない。大抵は大きい方が勝つだろう。

これは救いようのない話だ。対立と包摂は0か1かではなく、その中間もある。社会はできる限り彼らを包摂するように務めるべきだろう。しかしリソースには限界がある。そこからこぼれ落ちた者たちには、ただ未来の社会が彼らを包摂できるようになることを祈るしかないだろう。

社会的な動物としての感情の在り処

人間は醜い感情を持っていると言う。理不尽に沸き起こる憎悪、他人を蔑み、優位に立とうとする情動、富を独占しようとする欲望。他人を攻撃し、ないがしろにし、自分さえ良ければそれで良いという感情は共同体を維持し運営する上で有害なものだろう。しかし、自己保存という目的から見れば一定の合理性を持っている。

社会を維持するのは重要なことであり、そうした感情を醜いものだと捉えるのは必要な価値観だ。しかし生存の本質とは自分の性質を存続させるということである。だから自分らしくあることができないのはそれだけで命益を損なっている。その損失の程度には議論があるだろうが、少なくとも、自然に沸き起こる感情をただ悪と断じてしまうのはあまりにも一方的だ。

また、この問題は生存に適さない性質を持ってしまった人はどうすればいいだろうか、という議論を孕んでいる。

社会に多様性が存在するのは基本的に善いことである。時代が進み――あるいは戻り――、我々の住環境が変化すれば必要とされる能力も変わってゆく。多様性が高ければ、そういった場合に必要な能力を備える者がいないという確率を下げてくれる。

病気の因子など、中には明らかに生存に不利な性質もあるだろう。だがそれらの因子もその人の性質のひとつであることには違いない。上述したように、性質の存続こそが生存の本質である。だからそれらを取り除こうとするのは本人の意思、あるいは自然に任せるべきであり、少なくとも社会がそれに介入することは控えるべきだろう。

社会への貢献と、命の価値

社会や共同体にとって構成員は平等だろうか? 社会への貢献度によって構成員の扱いに差を付けることは許されるだろうか。

まず構成員の命に関しては、リソースが足りている限り平等である、と言うことができる。社会への貢献は善いことだが、それが善いとされるのは構成員の命益になるからである。全員に食べさせるだけの食料があるのに「お前は貢献度が低い」という理由で食料を分配しないのは命益に反する。

貢献度合いによってリソースの分配を変えるべきかという議論だが、これは社会全体の命益を最大化するためにのみ行うべきだ。つまり、そのリソースを使って何か有益な事業を行う者への投資として、あるいは社会に貢献した者への報酬として、それぞれリソースを多く配分することが正当化できる。しかし忘れてはならないのは、リソースを分配することそれ自体が命益を高めるということだ。貧しい者へ分配するお金は、大金持ちへの同額の分配よりも高い命益を生むだろう。貧富の差の存在は無条件に否定されるものではないが、それ自体によって一定の命益を損なっている。貧富に差を生むことによって得られる命益がそれによって損なわれる命益を上回っていない限り、その状態を正当化することはできないだろう。

社会への貢献、すなわち社会の命益を高めるとはどういうことか、という議題にも触れておこう。

大抵の産業が社会に貢献しているのは明白だろう。農業や工業、建築、研究や金融なども現代社会にとって欠くことはできない。

議論があるのは娯楽や文化に関わる職業だ。これらはまず、人々の精神を安定させる効果があると考えられる。心を落ち着かせたり、ストレスを発散したり、スポーツに関しては体を動かして健康を保つ意味もある。しかしそれだけではすべての娯楽や文化には説明が付かない。

文化とは模倣子に関わる行為だと言える。物語は、経験や価値観を後世に遺す働きがあると考えられるし、音楽や舞踏は、良くわからないが心の動きのようなものを伝える役割があるとも考えられる。スポーツやゲームは訓練によって経験を伝えるとも言えるし、その最中の心の動きを伝えているとも言えるだろう。

模倣子に関しては良くわからないところがある。熱帯の鳥たちの奇妙な儀式やイルカたちの遊びについて、我々の学問が語れるところはまだ多くない。だから文化や娯楽の存在価値については、良くわからないと言っておくのが正しいのだろう。ひとつ言えるのは、それら文化の存続を望んで自分たちのリソースを差し出す人たちがいることが、文化や娯楽に存在価値があることのひとつの証明になるだろうということだ。なぜなら、気に入ったものを応援して存続させる行為は、ひとつの立派な模倣子だからだ。

ゆゆ式2期まだですか?)

自然環境

我々が一匹の動物として野山を駆け回っていた頃は、自分のことだけを考えていれば良かった。だが、群れを作り、さらに知恵を武器にして巨大なコミュニティを作り上げるに至って、我々の活動は周辺環境へ無視できない影響を与えるようになってしまった。環境問題とは、我々が大きくなり周辺への影響力を増したことによる代償である。大きくなり過ぎた我々が、それでもなお周辺環境からの利益を享受し、不利益を避けたいのなら、我々はその問題に対処する必要がある。

また、我々が一つの命の一部であるという観点からすると、この問題には別の見方もある。すなわち、生態系を良い状態に保つことは生命全体にとっての命益になる、という考え方だ。

生態系を保全することは、一つの命への直接的な貢献であるとも言える。これが“善い”ことであるのは疑いがないが、落とし穴もある。ひとつは種や個体の生存、あるいは社会の存続とのバランスをどう取るのかという問題だ。もうひとつは、“良い生態系”をどう定義するかという問題だ。

どちらも広範な議論を必要とする複雑な問題であり、簡単に答えは出ない。ひとつ指摘しておきたいのは、我々は生態系の管理者ではなく、プレイヤーとして作られているという事実だ。もちろん、そう作られたからといってそう振る舞わなければならないという法はない。しかし、我々が持つ生態系についての認識は、プレイヤーとしての立場に縛られている。我々は食べられる動物については詳しいが食べられない動物については詳しくない。目に見える木々や川の流れを気にかけることはできても、目に見えない微生物や地下の生物群にはほとんど興味を持っていない。実際の生態系には人が食べられない生物の方が多いし、微生物や地下の生物の働きは決定的な役割を担っている。我々は生態系のプレイヤーとして作られたがゆえに、管理者としては問題がある。だからと言って管理などするなとは言わないが、その問題を認識した上で行う必要があるだろう。

また、上記の目的は混同されやすいという点も指摘しておく。つまり、環境保護活動には自然から我々の利益を引き出すという目的と、自然環境を保全して一つの命に貢献するというふたつの目的がある。これらを混同したまま行われる議論は、細部に踏み込むにつれて迷走するだろう。

功利主義、進化倫理学との関係について

ここでは、エスティズムと他の哲学理論――功利主義、進化倫理学との関係について軽く触れておく。功利主義と進化倫理学についての説明は行わないので、それらの理論を知らない人は飛ばしてしまうことを推奨する。

エスティズムは功利主義の変種とみなすこともできる。そのため、功利主義についての批判や議論はエスティズムにもかなりの部分当てはまるだろう。

両者の最も大きな違いは根本的な価値をどこに置くかであり、功利主義で最大化すべき対象は幸福だが、エスティズムにおいては生命全体の命益である。

幸福という概念は比較的身近なものであり、それについて考えるのも簡単だが、すべての生命について考えるのはそう簡単でもない。これは功利主義よりも迂遠な哲学になってしまったとみなすこともできるし、より根源的なものを問題にしているのだと主張することもできるだろう。

進化倫理学とは非常に似通っている。我々の道徳心は進化の結果として生まれたものであり、適応度の高い道徳ほど淘汰に耐えたために現在も生き残っているというのが進化倫理学の基本的な考え方(……に対する私の理解)だが、これは、生きるための意思が生きようとするがために生き残っているというエスティズムの考えと合致する。

エスティズムとは進化倫理学に道徳の実在性(生存を価値とする)を付加した哲学だという理解もできる。また、道徳以外の価値全般を対象にしているのだと主張することもできるだろう(これは進化倫理学を拡張してもできそうではあるが)。

しかし最も違うのは、理論の構築における考え方だろう。進化倫理学では生物学を基礎に置いて道徳の説明や構築を試みるが、エスティズムでは必ずしも生物学の成果を参照しない。もちろん、エスティズムの高度な実践者たる生き物たちの成果を見ることは大いに参考になるし、そうするべきだが、そこに間違いがないとは限らない。

例えば、“一つの命”を至上の価値とする生物は私の知る限り存在しないが、これは生命全体が滅亡するようなイベントが稀であることと、そういった危機に対抗する能力を持った生物種が存在しなかったためだろう。これは適応という意味では正しいが、理論としては一貫性に欠けると言わざるを得ない。

つまり、生物は道徳(というか、その元となる感情)を創る時に理論的な整合性など考えていない。それが矛盾を含んでいたとしても、表面化しなければ適応度に違いはない。進化倫理学における道徳とは適応の結果生じるものであり、適応さえしているのならその道徳にケチを付けることはできないだろう。

しかし我々にとって道徳とは生きてゆく上での指針や拠り所でもあり、それが破綻した理論では困る。エスティズムでは「一つの命の存続」を公理として演繹的に価値観を構築するため、理論的な整合性を保つことができるはずだ。

優生思想

この件については誤読をされると困るので先に結論だけ書いておく。優生思想は理論と実践の両面に多大な問題があり、少なくとも現在の人類には実現不可能だ。

まず、劣った者を排除してゆけば優秀な個体だけが残るはずだという素朴な優生主義については、単なる自殺行為として否定できる。多様性は生存のために重要な要素だからだ。

生存に最適な形態になるように、多様性のことまで考慮して社会あるいは種をデザインしてゆこう、というのが“正しい”優生思想だと言うことができるだろう。しかしそのために必要な命と不要な命をどう判別するのだろうか。

例えば筋肉の付きやすい体質は良い性質だとされがちだが、筋肉は基礎代謝が大きく、あるだけでエネルギーを消費する。使わない筋肉を付けているのは、使いもしないサブスクリプションを契約し続けるようなものだ。寒冷な環境下では脂肪の付きやすさは有利に働く。怠惰な性格は体力というリソースを節約する戦略である。リソースの消費を抑えることが生き延びるために重要であることは論を俟たない。鷹揚で気の長い性格は長期的な利益を追求するために役立つだろうし、短気な性格はその逆だが、その時得られる利益を確定することが有効な環境もあるだろう。人の性質はその生存戦略に結びついていて、どの戦略が正しいか、ということは一概には言えない。

確実に不利だろうと思われるような性質(一般に障害と言われているようなもの)についても、それが遺伝子の戦略である可能性を排除できない。鎌状赤血球症のように、同じ遺伝子が有害な病気と有用な性質の両方をもたらすような例もある。あるいは、先天的な異常とされているものが進化の方向性を探るための試行錯誤だとすれば、それを排除した先にあるのは進化の袋小路だ。袋小路に陥った生物は、環境に適応することさえできずに滅びを待つしかない。

繁殖や遺伝に介入するということは、進化に介入するということだ。それは動物としての直感が通用しない領域であり、現在の科学もその領域についての知見を得るまでに至っていない。おおざっぱな言い方になるが、神の領域に踏み込もうというのなら神の視点を持たなければならない。

何より、命の選別をされることは個々人にとって明らかに命益に反する。繰り返しになるが社会の存在意義とはその成員の命益を増大させることである。社会が命の選別を行うと言うのなら、失われた分を補うだけの命益があることを保証するべきであり、上述の通り、現在の科学水準ではそれは不可能と言っていいだろう。

次に、実践面の問題についてだ。

社会を構成する我々は同じ利害を共有する仲間であると同時にリソースを奪い合う競争相手でもある。権力を手に入れた者は得てして社会の効率化の名目で私腹を肥やし、政敵を排除するようになる。優生思想的な政策が、政争の具や個人的な利益のために行われるようなことがあってはならない。

そしてこの問題は権力者に限らず、すべての政策運営者について当てはまる。理論研究の担当者は、自分自身が抹殺されるべきだという研究結果を公表しようとは思わないだろう。政策運用の担当者たちが情や賄賂によって職権を濫用するようになれば、我々は自分の子を産んだり親が年老いていったりする度に彼らへ陳情に赴き、あるいはその権利を金で買わなければならなくなるだろう。これは命益に反している。何よりも、その担当者たちは自分や自分の子を殺害する決断を本当に下せるだろうか?

優生思想的な政策を副作用なく行うには高度に公平で公正な社会が不可欠である。いつかそんな社会を実現できるかわからないが、そんな社会でも、我々は自分たちの命の選別を必要とするのだろうか?

命の選別をするなとは言わない。それは自然界で当たり前のように行われていることだ。だが、我々の知見でそれをより上手く判別できるというのは今のところ願望でしかない。そして実践面の問題は、その願望を実行することさえ十分にはさせてくれない。少なくとも今の時点において、優生思想的な政策が種としての生存性を向上させられる保証はない。むしろ低下してしまう可能性さえあるだろう。ましてや、その生存性の向上が政策の実行過程で失われた命益を上回ることは不可能だと言い切ってしまっていいだろう。

魂とは

冒頭で大風呂敷を広げてしまった手前、魂についても議論してみる。魂とは曖昧な概念ではっきりとした定義があるわけではないが、エスティズムの観点でそれらしいものを当てはめてみよう。

人に宿る魂とは、生きようとする意思のことだと解釈できる。また、受け継がれる魂とは、遺伝子や摸倣子のことだと解釈できる。

知能を持ったロボットがあったとしても、そこに魂は生じないという主張がある。これはロボットが生きる意思を持っていないということだと解釈できる。では逆に魂を持ったロボットが存在するとしたら、どんなものになるだろうか? 

例えば臆病で危険を犯したがらず、ちょっとした破損で泣きわめいて大急ぎで修理を求めるようなロボットがいたら、それはだいぶ生き物らしく感じられるのではないだろうか。あるいは自分のミームを遺そうとするロボット――自分の考えたことや感じたことを必死で伝えようとしたり、自分が気に入った相手を懸命に守ろうとしたりするようなロボットがいたら。機械油まみれになりながら夢中で自身のクローンを作ろうとしたり、作り上げた“子供”を溺愛したりするようなロボットであれば、そこには魂があるように感じないだろうか? これらはすべて生きようとする意思を持つ者の特徴であり、そういった者たちをこそ、我々は魂を持つ者と呼んでいるのではないだろうか。だから魂とは、生きようとする意志のことだと言えるのではないかと思う。

また、一つの命を魂と同一視する視点を選ぶこともできる。

我々は一つの命の一部である。つまり、生命は今でもひとつのものだ。だとすれば、自我とは生命の一部分として機能するための便宜的な認識に過ぎない。

すべての生命をひとつのものとして捉えれば、個体の死とはただ一部分の壊死であり、種の興亡ですらその代謝の一過程に過ぎない。だとすれば我々は不死である。少なくとも、すべての生命が絶えない限りにおいて、我々の魂は不滅だ、と言うことができる。

古今の宗教家によって、大いなる者への帰依や不滅の存在との同一化という概念が繰り返し語られてきた。ひとつの生命と魂を同一視する上記の議論は、そういった宗教の語ったものと近いように思う。

しかし、眉につばを付けておこう。上記の議論は「自我は誤解だ」と言っておきながら、ひとつの生命と自己を同一視するような倒錯がある。生命がひとつであることと、我々がそれを知覚できるかということは、基本的に別の問題である。

また、模倣子を魂と同一視する見方もある。学問が継承される様子を魂が受け継がれると表現することがある。魂という語には「漫画は俺の魂だ」とか「魂のこもった投球」という用例がある。これらは摸倣子の伝播を魂に例えているのだとも言えるだろう。

魂という概念にはだいぶ大きな幅があるので少し曖昧な議論になった感はあるが、我々が魂と呼んでいるものはだいたいにおいて「生きようとする意思」のことである、ということが上記の議論によって示せたのではないだろうか。

上述したと思うが、愛の本質は自己愛である。愛とは、生きようとすることそのものだと言える。

自分を愛することが愛の基本である。そして、自分というものの範囲は変動する。繁殖相手や自分の子供たちを愛することは遺伝子の保存のための行為であるが、それだけではない。我々は時に遺伝的な繋がりのない他人や、同種ですらない別の生き物に愛を抱く。自分の愛したものを遺そうとするのは、模倣子の保存を目指す行為のひとつだと位置づけられる。家族愛や郷土愛、愛国心、人類愛、そして生命全体に対する愛は、愛の対象が拡大したものだと考えることができるだろう。

エスティズムに於いて、愛とは最も重要で賛美される対象だ。生命が誕生した経緯を考えれば、世界を創ったのが愛であることに疑いはない。だから、愛がなければ世界は無だ。一切の愛を失った時、我々はあの何もない虚無の中でさまようことになるだろう。もちろん、それは既に生きているとは言えない。生きることは愛することだ。愛とは生きようとする意志のことであり、無への回帰に抗う意思である。だから、愛がなければ世界は無だ。

メリットとデメリット、展望

最後に、エスティズムの現状の課題と展望について書いておく。

この哲学の問題点は、牽強付会が容易だということだ。社会の問題をエスティズムによって考えようとする時、どうしても迂遠な道筋を辿らなければならない。この哲学は射程の長さと引き換えに解像度を失う傾向がある。これは我々の行動を簡単には規定しない、縛らない、ある程度の幅を持った規則を提供するというメリットもあるが、一方でその曖昧さに付け込んだ牽強付会が横行する隙を与えることにもなる。正直なところ、上述の内容にも怪しいところはあるだろう。

幸いなことに、この問題に対抗できる性質をエスティズムは備えている。定量化の可能性だ。生存率というものは名前からしてもわかる通り、数値として表すことができる。だから、エスティズムがもたらすあらゆる価値観は定量化できる――数値で表すことができる――はずである。

これは簡単な作業ではないし、満足ゆくモデルができるとも限らない。しかしやってみる価値はある試みだろう。

既存の他の哲学との関係ももう少し整理しておきたいところだが、そのためにはまずは自分の浅学をどうにかしないといけない(進化倫理学については書き始める時点で名前さえ知らなかったのだが、これは内緒だ)。やるとしてもかなり先のことになるだろう。

この哲学の根源のところは、上述したように非論理的なものである。この哲学には宗教的なポテンシャルがあるとも言えるし、危険性があるとも言える。あまりそういった側面を押し出すつもりはないが、もしもこの考えが読者が生きてゆく上での助けになるのなら幸いだ。

この哲学の応用についていくつか例示は行ったが、特に社会の諸問題を議論する上では、まだまだ量は足りていないように思う。少しずつでも例示を足して応用例を充実させるべきだろう。

この哲学にはまだ多くの議論が必要であり、筆者以外の視点による批判が必要である。そのために専用のtwitterアカウント(なまもん (@estism5) / Twitter)を作成したので、どしどし批判を寄せて欲しい。その他の情報発信も行うつもりだ。