愛がなければ世界は無だ、ということについて

エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

実力主義の功罪とか

このエントリは、サンデル教授の新刊について書いたブログ(「共通善」で問題が解決できるなら苦労はしないよ(読書メモ:『実力も運のうち』①) - 道徳的動物日記能力主義は魅力的である(読書メモ:『実力も運のうち』②) - 道徳的動物日記サンデル教授の「大学入試くじ引き論」 - 道徳的動物日記)を見かけたので、エスティズムの観点から(元の本を読んでもないのに)いっちょ噛みというか、ダシにしてひとエントリでっち上げようという企画です。

エスティズムが何か分からない、という人は前回のエントリ(https://estism.hatenablog.com/entry/2021/04/28/200406)を見てください。長いけど。長いのでがんばらないという人向けに短く言うと「生命が生き続けることが善いことだ」という道徳を定義する倫理哲学です。

繰り返しますが本は読んでません。元エントリを読んでだいたいの感じを掴んだつもりになって、そのだいたいの感じから議論を拡げてゆくというゆるふわ系エントリになります。過度な期待はしないでください。

実力主義の功罪

さて、実力主義についてサンデル教授が指摘した問題点は「エリートどもが必要以上に調子に乗って、ウザくてかなわん」ということだろう(多分)。

論点になるのは、「必要以上に調子に乗って〜」の「必要以上」という部分だ。エリートを調子に乗らせる必要はあるのか。あるとすればどの程度なのか。

能力の高い人間を優遇するのは社会の発展と効率化のためだ。それによって社会の命益*1が高まるのなら、その行為は正当化できる。

たとえば社会を発展させる研究成果が出たとして、その研究者が「ちやほやされるため」に研究をしていた面があるのなら、それを褒めそやす行為は結果として社会の命益を高めるだろう。ところで研究というのは”早い者勝ち”なので、見た目どおりの成果だとは限らない。社会をひっくり返すような研究をした研究者は絶賛されるだろうが、その人物がいなかった場合でもその1日後に同じ研究成果が出ていたとのだとしたら、その成果は実は限定的だと言える。これは、その可能性を考慮に入れて考えた場合、研究費を同じ分野に集中させるのは無駄が多くなるということでもある。やはり研究というものは浅く広く支援するのが良いのだろう。

話がそれた。要するに能力主義とは、エリートを優遇することで社会の命益を高めようとする試みである。

逆に、その「えこひいき」によって損なわれるものとは何か、それがサンデル教授の指摘した能力主義の負の部分だろう。

能力が低いとされたものは”つまらない”仕事に追いやられ、バカにされて、尊厳を傷つけられる。感情というものは生存の手段に過ぎないとはいえ、過剰なストレスは様々なパフォーマンスを落とすと同時に「生存の質」を下げると考えられ、やはりそれは命益を損なうと言うべきだろう。そして損なわれる命益の”数”は限られたエリートのそれよりもはるかに多い。

3パターンの解決策

人間などというものは多かれ少なかれお調子者であるので、だいたいはおだててやれば木に登るだろう。しかし調子に乗りすぎた連中は放っておくと木の下にいる人たちを攻撃し、バカにし始める。

能力主義が許されるのは、それによって増大する命益が損なわれる命益を上回る場合である。 よって、この問題の解決策は3パターンに分けられる。

  1. 「木に登ること」による命益を増やす。
  2. 「木に登った連中」に自制を促す。
  3. 「木の下にいる人たち」のストレスを緩和する。

①「木に登ること」による命益を増やす。

①はなんというか、ポジティブで攻撃的な選択肢だ。非エリートのストレスがどうだろうと、それを上回る成果を出してしまえば良しとする。

しかしミクロな個別の事例についてはともかく、マクロな事象に対してそれは基本的に不可能だ。そんな方法があればとうにやっているはずだからだ。

また、①の亜種として「十分な命益が得られていると主張する」ことも考えられる。つまり、現状で既に能力主義を正当化できるだけの命益を獲得しているため、問題それ自体が存在しない、という考え方だ。

「誤解を正す」という方向性だが、いかにも非エリート層に嫌われそうな方法だ。また③についても一応同じような主張の余地があるが、あまりにも剣呑な主張であり、良い方法ではない。

②「木に登った連中」に自制を促す。

サンデル教授の「大学入試くじ引き論」は②に当たるだろう。孫引きだが引用しておく。

四万人超の出願者のうち、ハーバード大学スタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資格がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に適格な受験者として残るのは三万人、あるいは二万五〇〇〇人か二万人というところだろう。そのうちの誰が抜きん出て優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適確な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから二〇〇〇人を選んで、それで決まりということにする。

(p.266)

大学入試の”運”の要素を可視化することで、過度に調子に乗ったエリートたちに「お前は運が良かっただけだ」という現実を突きつけよう、という提案だろう。

個人的にはこの方法はいかにも対症療法といった感じで好きではない。入試の精度を多少なりと下げることになるし、人間のお調子者度合いを考えれば、これによって命益が減少する可能性も考えられる。ちやほやされたい一心でがんばっている人たちだって結構いるんじゃないだろうか。

また、②にも「エリートの数を減らす」という亜種が考えられる。社会の発展を犠牲にしてでも、バカにする「煽り手」の頭数を減らすことで、非エリート層のストレスを軽減させるという案だ。数が少ない分、より調子に乗った「スーパー煽り手」みたいなのを生み出しそうな気もするが。

③「木の下にいる人たち」のストレスを緩和する。

個人的に有力だと思うのは③だ。

具体的なストレスの軽減方法としては様々に考えられるが、格差の縮小を目指すのが(凡庸だが)結局は妥当だと考える。極端な例だが、もしもエリートが自分よりも低い所得しか得ていないとすれば、いくら煽られたとしてもそんなにストレスにはならないのではないだろうか?

もちろん、お金目当てでがんばる人たちだって(たくさん)いるだろうし、そのための差をつける事は必要だろう。しかしそれが「必要以上の差」になってしまっているのなら、軋轢が生じるのは当然だ。

「お金の余裕は心の余裕」とも言う。ストレスがかかったとしても、お金があれば消費行動で軽減するという選択肢もできるだろう。

問題点としては、やはりお金目当てでがんばる人たちのインセンティブを減少させてしまう可能性があるという点だろう。

結論(出なかった)

で、結局どの立場が正しいのか。それぞれの立場を闘わせてみるのも悪くないだろうが、いずれも決定打はなく、結論は出そうにない。

それで終わりにするのはあんまりなので、最後にどうすれば結論を出せるのか、そのために何が足りていないのかについてアイデアを出しておく。

まず、エリートへの称賛や報酬によってどの程度社会の生産性が上がり、命益が増すのかという数字を出す必要がある。平たく言えば、世の中に銭ゲバやお調子者がどのくらい存在するのか*2、という係数だ。

次に、上記の賞賛や報酬の偏りによって失われる命益がどの程度なのか。上の係数とも関連するだろうが、非エリート層にかかるストレスの程度と、それによって失われる命益。富の偏りによってかかるストレス、あるいは解消されなくなるストレス、生存への脅威について算出する必要がある。

賞賛や報酬による行動変容については行動経済学の分野だが、それによる非エリート層へのストレスについては社会学の分野だろうか。ここに関してはあまり研究がされていない部分かも知れない。

ストレスによる生存への影響は医学の分野だろうが、それと命益との関係については今のところ解っていない。なんとか人任せにしたいところだが、これは今後の課題として考えてゆくしかないだろう。

オチ

というわけで、精度の高い議論をするためには定量化が不可欠だ、というありがちな結論がこのエントリのオチになります。

結論を出すのが正義だとは限らないので、まあ仕方がない。

↓はおまけです。話半分でどうぞ。

もうひとつの解釈

ところでこの問題にはより絶望的な解釈がある。

上の議論は「社会全体」という視点から損益を見ているが、エリート層と非エリート層とで別の利害がありうることを考慮すれば、「エリート層が命益を独占している」という可能性を考えることができる。

つまり「エリートたちは社会的、経済的資源を優先的に配分されておきながら、それによる利益を自分たちの層にしか還元していない」という批判の可能性だ。

これがもし有効な批判となりうるのなら、社会は既に分断されている。その分断を癒やさない限り、社会はそれ自体の存在意義を問われることになるだろう。

*1:命に対する利益、生存の確率を高めたり遺伝子・模倣子の伝播を助けたりすること。詳しくは、前回のエントリ(https://estism.hatenablog.com/entry/2021/04/28/200406)を参照してください

*2:筆者は銭ゲバでお調子者なので、お金と称賛をください!