愛がなければ世界は無だ、ということについて

エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

文化や芸術、学問――ミームの価値について

文化というものにどれほどの価値があるのかという疑問には様々な立場があり議論がある。 ここではエスティズムにおいての文化(ミーム)の価値について論じてみる。生存を価値とするこの思想においてミームの価値は低いように思えるかもしれないがそうではない。これは初回のエントリで少し触れた。

また、遺伝以外の模倣子の役割を軽視するべきではない。収斂進化の一部などでは、模倣が進化に影響を及ぼしたと考えられる例もある。遺伝子とは生存のための手段のひとつに過ぎず、もちろんそれは重要な手段であるが、それだけしか採用してはいけないという義務はない。何より、我々の文化、科学、言葉、文字や数字、テクノロジー、政治、経済、これらはすべて模倣子の働きによるものだ。我々のような知的生命体にとって(言うほど知的なのか、という問いは置いておいて)遺伝子以外の模倣子の役割は極めて重要であり、それは決して遺伝子に劣るものではない。

https://estism.hatenablog.com/entry/2021/04/28/200406

引用文にあるように、ミームの価値について確実に言えるのは実用的な価値についてだ。経済や行政機関のようなミームが我々の生活に大きく寄与していることは疑問の余地がない。科学についても同様だ。娯楽としての文化や芸術は精神に平穏と安定をもたらすことで我々の生存に寄与している。祭りなどの行事は共同体の絆を深めるという価値があるだろう。

しかしこれは"娯楽系のミーム"の価値に対する説明としては不十分なように感じられる。

ひとつ思考実験をしてみる。地球上の社会およびその構成員たる我々のすべての記憶から次のふたつの概念のうちどちらかを抹消しなければならないとしよう。あなたは「貨幣経済」か「小説と戯曲(映画やアニメなどを含む)」のどちらを選択するだろうか?

――前回"思考実験の濫用"を戒める文を書いた手前、一応フォローを入れておく。上記はかなり不自然な設定の思考実験だが、その不自然さが結果に与える影響は皆無または軽微だと考えられるので、濫用には当たらない。……と主張しておく――

閑話休題。あなたが「貨幣経済」と「小説と戯曲」のどちらを選んだかはわからないが、実用的な価値から言えば正解は「貨幣経済」の方だ。しかし、"正解"を選んだ人もかなり(あるいは少しは)悩んだのではないだろうか。少なくとも僕はかなり悩んだ。悩まずに貨幣経済を選んだという人も、その選択に悩む人が存在することには同意するだろう。

しかし、これは奇妙なことのように思える。「小説や戯曲」がある日なくなったとしてもそれほど困ることは(少なくともすぐには)ないだろうが、「貨幣経済」が消え去ってしまった場合の混乱と被害は前者の比ではない。流通は大混乱を起こし、おそらく紛争も多発する。貨幣経済が登場する以前の人類の総人口を考えれば、その数を10分の1以下にまで減らしたとしても不思議ではない。

我々は貨幣経済の存続を選ぶべきだろう。これは比較すること自体がおかしいほどの自明な選択ではないだろうか?

疑問として浮かび上がるのは、なぜ我々はその自明なはずの選択に多少なりと悩んでしまうのかということだ。つまり、上記の"実用的な価値"に関しての記述は我々のミームに対する感覚を説明しきれていない。

別の例では、スポーツに"命を賭ける"という人たちがいる。スポーツの実用性は健康の増進や肉体や技術の鍛錬であると考えられるが、それらに人生を賭けることはやはり不合理なことのように思える。

我々は、ミームの価値を実用性(少なくとも上述した範囲の実用性)によってだけで決めているわけではないようだ。しかしそれはなぜなのか?

3つの仮説

おおまかに3つの可能性があるように思う。

  1. (さらに別の)実用的な価値
  2. バグ
  3. 我々の子供たちとしてのミーム

1.(さらに別の)実用的な価値

1.は、小説や戯曲など芸術系のミームには上記で触れた実用的な価値を超える――というかそれ以外の――価値があるのではないか、という可能性だ。

人の一生で得られる経験には限りがあり、また偏りがある。他の人が得られないような経験を得た人が自分の体験を話したものが物語というものの起源のひとつとして考えられる。そういった物語を通して、人々は普通に暮らしていたのでは得ることが難しい経験を間接的にだが得ることができる。その意味で、物語とは一種の思考実験のようなものでもあるだろう。極限状態での行動や倫理を考える経験は、いざという時に役立つこともあるだろう。それが時を経るごとに洗練されてゆき、今日我々が知るような民話になったのだと考えられる。そして現代の小説や戯曲もその形式を受け継いでいる。

上記の経験や感性は我々の想像力を涵養し、普通に暮らしているだけでは得られないような視点を獲得することで我々の判断力を養ってくれる。

貨幣経済や自然科学は有能な道具ではあるだろうが、判断を誤る可能性も大きなリスクであり、それらが我々の判断力を向上させるのであれば軽視するべきではない。車があっても道を知らなければ目的地には着けないのだ(もちろん、車がなければそもそも間に合わないこともあるだろうが)。

上記の実用性と、最初に書いたような実用性をどうやって比較するかは悩ましい問題だ。判断を誤ることによる被害と上記の判断力の涵養がどの程度のものなのかによるが、どちらも定量化する難度は高い。しかし政治的に重要な決断というものはえてして稀な状況で行われるものであり、そういった事態を実際に経験することは極めて難しいということは指摘しておけるだろう。

また、音楽や絵画などの芸術は感性を磨く訓練としての側面も持っていると考えることができる。これは少し根拠の薄い話かもしれない。そもそも感性が向上するというのがどういうことなのか明確ではなく、それが向上したからといって具体的にどう役に立つのかもわからない。しかし人間が言葉だけで物事を考えているわけではない以上、感性を磨いておくことはおそらく重要なことではないだろうか。

2. バグ

2.は、小説や戯曲を始めとするいわゆる芸術系のミームの価値を高く評価するのは我々の脳(というか思考・感情の形態)が生みだすバグに過ぎないのではないか、という可能性だ。

文化やアートとは寄生生物のようなもので、我々の感情などの心性を"ハック"している。良いアートとは、よりうまく心性をハックするアートのことだ。寄生された者は、その寄生生物を愛し、守護するようになる。

この観点に立てば、アートとは実用的なメリットを除けば本来は無価値なものである。我々は寄生されてしまったためにそれらの無価値性に気づかない、ということになる。文化やアートは"良質"な――実用的な価値が高く、寄生能力の低い――もののみが許されるべきだということになるだろう。「公序良俗に適い、ことさらに射幸心を煽るものであってはならない」というやつだ。個人的には好きな考えではないが。

3. 我々の子供たちとしてのミーム

ミームを遺すことにはそれ自体に生存を超える価値があるのではないか、というのが3.の可能性だ。これはミームという言葉の本来の意味だとも言える。

芸術作品の中には作者の死後に残り続けるものが多くある。科学者はそもそも自分の代で科学が"完成"することを想定すらしていない。誰かが作りだした模倣子は人々の間に伝わり、洗練され、新しいミームを生む。優れたミームは作者の死も時代すら超えて受け継がれてゆく。自らの因子を遺すという意味で、遺伝子と模倣子は同じものである。ならば、命すらかけてそれを生みだそうとする行為には生存のための合理性がある。

また、上記で文化を寄生生物に例えたが、この観点に立てば文化とは人類全体で育てているペットのようなものとみなすこともできる。ここで指摘しておきたいのは、文化という生物は人類がいなくても生存する可能性があるということだ。

例えば人類が滅んだ後に地球に生まれた次の知的生命体や、他の惑星からの来訪者が我々の文化の一部でも継承してくれるかもしれない。これは遺伝子にはない、模倣子だからこその特長である。

どんなミームが他の生命に受け入れられるかは予想のつきにくい問題だが、最も可能性が高いのは数学か自然科学だろう。文化系のミームでは、音楽や絵画などは感覚器官や脳の構造の違いから理解されないかもしれない。可能性があるのは物語の形式をとる創作物ではないだろうか。スポーツや舞踊は身体構造の違いから、そのままでは継承されないだろう。

いずれにしても、生物種の寿命を超えて存在し続けるかもしれないというミームの可能性は、そのために"命を賭ける"ひとつの理由にはなりうるだろう。

まとめ

ミームの価値についての結論はまだ出ない。創作物で得た経験や感性とそれによる判断力を評価する手段はまだ存在せず、人間の文化への偏愛が感情の暴走によるバグであることを証明するには感情の本来の役割を過不足なく明らかにする必要があるが、これも判明していない。宇宙人や未知の生物がどんな文化を好むかに至っては予知能力でもなければわからない。確率を出すことは可能かもしれないが、そのためには彼らについてのデータがもっと大量に必要だ。

しかし、その正確な価値についてはわからなくても、その価値が"ある"ということ、あるいは少なくとも存在する可能性については示せたと思う。