愛がなければ世界は無だ、ということについて

エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

進化倫理学入門の読書メモ④、ヒュームの法則

最後は(なんかちょっとだけ時間が空いたような気がするが)ヒュームの法則について。

概要

まず、「ヒュームの法則」とは何なのか。

我々の用語で言えば、ヒュームは事実に関する言明と価値に関する言明は「まったく異なる」ということを認識していたのである。そして彼は「である言明」(あるいは「『である』や『でない』といった命題の繋辞」)から「べし言明」への不当な移行に気づいた最初の人物である。(後略)

(p.192)

「〜である」という状態を示す言明から「〜べき」という義務を示す言明(価値言明)を導くことはできない。言いかえれば、何もないところから義務を生み出すことはできない、という指摘だ。これによって論拠を奪われた倫理学(社会ダーウィニズムとか?)もあり、「ヒュームのギロチン」という別名でも知られているらしい。

反論してみる

これに対する反論として、「目的から〜べきという価値言明を導出できるようにする」というものが考えられる。*1

ある目標、例えば「テニスのプロになりたい」という目標を設定した時「テニスのプロを目指すのであれば、コーチを付けて練習すべきだ」という価値言明を(内容が妥当かはともかく)語ることはできるように見える。

この主張の争点は次の3つだ。

  1. 目的から価値言明を導出することは妥当か?
  2. ”目的”の論理的な位置づけとは何か?
  3. 公理系として破綻していないか?

①は、そもそもの目標「目的から〜べきという価値言明を導出できるようにする」を達成しているか?  ということであり、②は”目的”という概念の曖昧性を問うものだ。③はこのアイデアによって倫理の議論に”目的”という異物を取り込むわけだが、それが破綻を産んではいないか? という疑念だ。

まず①の論点について考えてみる。

先述したが、目的から価値言明を導くという論理は既出のようだ。

現代の自然主義哲学者たちは「である」から「べき」の導出は可能であると見なし、それは「Aが目的Bを達成するためにAはCすべきである」(In order for A to achieve goal B, A ought to do C)という言明に分析できるとした。これならば、検証または反証されうる。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヒュームの法則(最終編集日 2022年1月25日 (火))

wikipediaの記述では論理の破綻などには触れられていないので、論理として破綻がないことは恐らくある程度示されているのだろう。代わって以下のような問題点が示されている。

しかし、目的は「べき」を暗示しており、「べき」から「べき」の導出に過ぎないとも言いうる。

同上

この議論では、目的から価値言明を導き出すことそのものは認めている。しかし、それができるのは「目的の中に価値言明が含まれ」ているからではないか? これは②の「目的の論理的な位置づけ」にも関わってくる話で、価値言明を導けるかどうかの話をしている時に価値言明を含む仮定を持ち出すんじゃない、ということだろう。それは確かにルール違反だ。

しかし、ヒュームの法則は「何もないところから価値言明を導いてはならない」という法則だったわけだが、これを目的について素直に導入すると「義務とされるもの(価値言明によって示されるもの)以外に目的を持ってはならない」という、なんと言うか人生に疲れ切った独裁者の布告のようなものになってしまう。論理的な厳密さがどうあれ、これを法則として認める人はいないだろう。

次に②の論点「 ”目的”の論理的な位置づけとは何か?」について。

目的とはある意思が目指す未来の状態のことである。だからこれを扱おうとする論理は時間とそれによる状態の変化を扱えなくてはならない。時間を扱える論理系は時相論理と呼ばれていて、かなり研究されているようだ。

また、目的には強弱がある。食事の後に美味しいブドウを食べたくなったからといって、理想のブドウを作るためにブドウ畑を作り始める必要はない。目的によって生じる”義務”はその目的の強さに応じたものになると考えるべきだろう。

厳密な議論をするためには“目的“の具体的な定義を与えて適切な論理系の上で議論しなければならないだろうが、大まかには上記の理解で問題ないと思う。 ③についてはより具体的な議論が必要である。形式化して考えてみるのがよいが、十中八九先行研究があると思う。中途半端な議論を進める前にそれを探すべきだろう。

まとめると、ヒュームの法則は目的とそれによって導かれる価値言明というアイデアによっておそらく破られている。

それでも法則の正しさを主張したい人は厳密な――おそらく時相論理論理をベースにした――検証を行い、「目的から価値言明を導ける」という部分の矛盾あるいは論理系の破綻を探すか、あるいは「やらなければならないこと以外に目的を持ってはならない」ということを人々に納得させなければならないだろう。断言はできないが、どちらもうまく行きそうには思えない。

エスティズムへの影響

エスティズムの観点から考えてみると、目的とは我々が内在的に持っているものである、と言うことができる。そしてその中に含まれている価値言明は「生きろ」という言明であり、それは論理的に生じたものではない。

また、価値言明が目的から導かれることから、道徳も目的から導かれたものだと考えることができる。この考えに立てば、道徳とは「目的を共有するもの同士の契約」と見なせるだろう。基本的価値観の共有、広い意味での仲間意識と言いかえても良い。「俺達の仲間なら、〜〜をしてはならない」という類のものだ。道徳的な禁忌を犯さないことは仲間からはじき出されないために必要なことであり、道徳的義務を果たすかどうかは仲間意識を確認するための儀式でもあると言って良いだろう。

倫理の根源が目的とそのための行動だとすれば、倫理とは「共有できる目的」のことであり、社会と個人の間の契約でもある。しかし目的というものはいくら共有されたものであっても本来は個人的なものである。

これは倫理や道徳の奇妙な性質のひとつ――社会的なものであり個人的なものでもある――をうまく説明しているように思う。

*1:後述するが、既出の考えのようだ