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エスティズムという哲学の発展やら何やらをめざすブログ

「進化倫理学入門」読書メモ① 道徳の生得性とか、そのへん

「進化倫理学入門」を読了した(わーい)。気になった点やら議論の種になりそうなところについて、何回かに分けて読書メモを書いてみる。

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本自体の感想だが、全体的に平易で読みやすい。入門としては持ってこいの本ではないだろうか。冗長かな、と思ったところもあるが、理解するためにも誤解を避けるためにも、分かりやすいに越したことはないと思う。あと装丁が良い。イラストも配色も決まってていてカッコ( ・∀・)イイ!!

第5章「美徳と悪徳の科学」道徳の生得性の部分に疑問を感じたというか、反論を思いついたので、今回はそれを題材にしてみる。

道徳の生得性

(前略)彼らが普段正しいことをするにせよしないにせよ、子どもたちは一様に正しいことが何かを知っているのだ。そしてこのことから心理学者は、おそらく道徳は教え込まれるものではないと推測するのである。おそらく道徳は生得的なものなのだ。

(p.123 - 124)

道徳の生得性についての議論とは、道徳心は生まれながらに備わっているのか、それとも経験によって獲得するものなのか、という議論だ。

進化倫理学者にとってこれは重要な議論なのだろう。道徳が生まれつき備わっているものだということになれば、それが進化の産物であるという重要なテーゼの証明に大きく近づくことになるからだ。

(前略)どのようにしてこの能力は生まれつきのものとなったのか。誰かが、あるいは何かがそれを「埋め込んだ」はずである。進化論的アプローチの擁護者は自然選択が、心の働きを形作る遺伝子のかたちで、それを埋め込んだのだと主張する。

(p.124)

「刺激の貧困論証」と、それへの反論

この本では「道徳性についての刺激の貧困論証」について扱っている。実験によると、子供たちは道徳をどうやら理解しているが、しかし道徳を学ぶにしては、そのための刺激(情報)が少なすぎる。十分な刺激がないのに道徳を理解しているとすれば、それは学んだものではなく生まれついてのもの――つまり、生得的なものであるはずだ。

この「刺激の貧困論証」は言語の習得についての議論で先例があるらしい。言語という複雑なものを学ぶにしては、子供たちが受け取る刺激は少なすぎる。だから、少なくともその基本的な部分、言語の構造など基本的な考え方は生得的なものでなければならない。本ではその議論を引きながら、「刺激の貧困論証」によって言語の生得性が支持されているのなら、同じ論法で道徳の生得性も支持されるのではないかという議論を紹介する。

疑問があるのはここだ。簡単に言うと、道徳という概念は言語構造の中に内包されているのではないか? という疑問だ。つまり、言語というものは中立なものではない。我々は表現する必要がないものについての語彙を持たないし、逆に表現する必要性が高いことがらについては多様な語彙を持つ。イヌイットの言葉には雪を表す語彙が多いとか、沖縄の方言には海の色を表す語彙が多いとか、そんなふうに言語とは”価値中立”ではない。

たとえば「ある」とか「ない」とかいう音(ないし文字列)は、文章構造のどこに配置されているかによってまったく別の語として扱われる。文章構造的に同じだったとしても前後の文脈で意味が変わることさえある。言語を習得するということは、そういった微妙な意味の違いを習得することでもある。

言語を学んだもの(ここでは子供たちだ)は、その中に道徳的な規則に関する語彙が含まれていることを理解するだろう。「〜〜してはならない」とか「〜〜するべきだ」というような。だから、道徳的規則の語彙を含んだ言語を習得した子供たちは、道徳的規則というものの存在を少なくとも学習するだろう。そして、道徳的規則というものが”ある”ことを知ってしまえば、それがどんなものかを学習するまではほんの少しだ。そこに”刺激が不足している”ようには思えない。

生得性の入れ子、というアイデアとその問題点

この問題は言語の生得性を仮定すれば解決できる。言語が生得的なのだから、その言語に含まれる道徳性もまた生得的であるはず、という理屈は成り立つ。しかしこの論法は、道徳性が進化の産物であるという仮説に対して新たな厄介事をもたらす。

本文にちょうど良い記述があるので引用しよう。

そうは言っても、仮に道徳が生得的であるとしても、このことは道徳が進化上の適応によるものだということを含意しないということは、繰り返すに値する。一歩離れたところから見ると、道徳の生得説は言語の生得説と同様、(いわば)人間に最初から備わっている事柄についての話であるということを、我々は強調すべきだろう。適応説は、人間に備わっている事柄がいかにして備わるようになったのかについての話である。このことが意味するのは、道徳の生得説を支持しつつも、道徳が適応によるものだということを否定することもできるということだ。たとえば、道徳はその他の認知システムの副産物、すなわち外適応だと論じることもできるだろう。

(p.148)

傍点を省略したので読みづらいかもしれない*1が申しわけない。上の引用の内容がほぼ答えなので*2繰り返しになってしまうのだが、言語の中に道徳性が組み込まれているという仮説を採用した場合、言語が生得的であったとしても道徳が生得的であるとは限らない。道徳性は人間が持つ言語能力の副産物であり、外適応に過ぎないと主張する余地がある。

道徳が進化の副産物に過ぎないとした場合でも、それが進化の産物であることに違いはない、という抗弁は可能である。しかしその場合、道徳性に与えられる地位は盲腸のような「役に立たない臓器」*3と同じ程度のものにならざるを得ないだろう。

議論のまとめ

道徳の生得性についての議論の中に言語の生得性についての議論が出てくることからして、この疑問は既知なのかもしれない(識者の方は教えてください ><)。

いずれにしても、言語構造の中に道徳についての概念が埋め込まれている可能性はかなり高いのではないかと思う。そして道徳の生得性が言語の生得性に依存しているのだとすれば、おそらくそれをまず”分離”させなければならない。それが単独で存在している場合に比べて、道徳が適応の結果であるという主張を証明するのはより困難な作業になるだろう。

エスティズムへの影響

提唱者としては、エスティズム(https://estism.hatenablog.com/entry/2021/04/28/200406)への影響について一応触れておくが、これはほとんど影響はない。エスティズムは道徳だけを扱う理論ではなく、よって、それがどこから来たものなのか、ということについてもあまり興味がない。強いて言えば、道徳の価値について考える際に「進化に産物なのだから良いものである可能性は高い」という傍証が増えるくらいだろうか。

次回予告

次回も読書メモをお届けする予定です。あでゅー

*1:Markdown記法ではつける方法が見つからなかった……

*2:ところで、文中の議論への反論が本文中の引用によってできるというのは、著者がフェアな議論を展開している証拠だろう。すばら。

*3:盲腸が本当に役に立っていないのかについてはまだ議論があるようだが